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我が家の如き場所はない

——ファッション・フォトグラフィにおける、
  ミニマム風空間構成と白の隆盛をめぐって

 



コリア・ショア

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ここしばらくの間、ファッションは装飾を愛していた。バングル、刺繍をほどこした床置きのクッション、ビーズや模様といった視覚的な調味料は、ユイスマンスの『さかしま』(1884)に登場する、立食料理をところ狭しと並べた東洋趣味のスモーガスボードを思い起こさせるものだった。あとの祭りには、アクセサリーはソーダの缶や灰皿、引き裂かれ綻びた物たちとなった。ところが突然、室内は清潔に掃き拭われ、すべての痕跡は抹消されてしまった。いぶかしみの呟きが聞こえる——なぜ、部屋の中はこんなにも空虚で白々しくしているのだろうか? カルバン・クラインをタイムラインとして取り上げてみることが可能だ。空っぽのベージュ色をした部屋で、ブルック・シールズは初めてクラインのジーンズのモデルとなった(私と私のカルバン・ジーンズの間に割って入るものは何か、あなたご存じ? そんなもの、なんにもないのよ)。シールズの露を帯びた、未成年の少女特有の性的な蠱惑に輝く面立ちと、ホルモン分泌の盛んな様子を物語る眉とが、ひとつの装飾品であったということはできるだろうが、しかしそれでも、空虚さはあたりに溢れていた。白いパンティすら不在だったのだ。継ぎ目もない(シームレスの)背景は、まさにアヴェドン一色の世界だった が、この空虚さこそが「年代もの(ヴィンテージ)のクライン」となっていった。*1

 

この広告キャンペーンのすぐあとに、クライン自ら、ひょっとするとジョージア・オキーフが住んでいたかもしれないと思わせるような、水で漆喰を塗り流したニューメキシコ様式の白い家屋を舞台にポーズを取ったものだった。ジョン・ポーソンの手による、あの白い空虚な様相を湛えたマジソン街の本店をオープンする遙か昔の出来事だ。*2クラインが身にまとった白い衣服は、ユダヤ系独特の彼の肌をあたかも日焼けに輝くそれのように映し出し、名状しがたい美しさを湛えた彼の相貌は、象牙の品々や漂白した 床に映えてきらめいていた。「タオスのギャッツビー」さながらに——。

伴侶を伴わない(パートナーレスの)欲望は、相結ばれるという行為についての見事なまでのシミュレーションへと道を拓いていった。『Eternity』の初のテレビ広告(あなたがわたしに触れているの? それとも、わたしがあなたに?)こそ、両性具有に自慰、無造作に投げやられる枕、そのすべてを混ぜ合わせたものだった。ハーレムにも似た住処に現われる、どこを彷徨っているのかわからない手のイメージは、想像力を快く刺激してくれるものだったが、図像的(アイコニック)、あるいは皮肉な(アイロニック)ものとなるにさえ、あまりにも1970年代的、つまり、あまりにも「間をおかずに早々に到来しすぎた」イメージだった。ピーター・リンドバーグによる『Eternity』のイメージは、早晩、ユルゲン・テラー撮影の、ヒロインに起用されたクリスティ・ターリントンが、時にボートに乗って、時に島や浜辺で、男性や子どもと漂流するイメージに切り替えられた。肝心なのは「家族性」なのだ。この家族を守るべく、あたりの風景は基本的に空っぽで、ほとんど、あたかも彼らが 保護区域に留められた種かなにかでもあるかのような感じだった。

空っぽの部屋は、荒廃した部屋に続くごく自然な進行過程だった。難破した室内では、痩せこけた長く柔らかい髪のモデルたちが、ヘロイン中毒者(スマッグ・ヘッズ)や覚醒剤常習者(スピーダーズ)そのものといった説得力溢れる様相でポーズを取っていた。デザイナー・ブランドのものではない洋服と思いもつかないようなモデルを引き連れてこっそりと 忍び入るコリーヌ・デイは、とりわけ、散らかり放題ではないとしても継ぎ目からあちこち剥がれ落ちていくような部屋をつくりだした。最良の写真がそうであるように、この種のキャンペーンは、そのリアリズムのゆえに称賛され、その存在自体のゆえにとがめられた。けれどもヘロイン・シーク(/シック)は、「CK1」(1994)以降の広告シリーズにおけるアヴェドン流の白い空間内では、ちょうどその勢力が衰えに向かう頃に起こったにもかかわらず、十分すぎるほどの起爆力を持っていたのだった。「CK be」 (1996) の ヴィンセント・ギャロは、ただもう、それらしすぎたのだ。*3世界中がファッション業界を叱責するならば、いったいどうすればいい?——新たな場所に転移するのだ。どこに? 完璧に統制された(モノリスの)モニュメントの内に。肌のきめが、もはや磁器のようでも油を塗り込めたようでもなく、卵の殻のような白さでもって仕上げられている、そんな純白の空虚な室内へ。あまりにもリアルすぎた1990年代初頭の色彩と放埓の中から抜け出て、ファッションの術策(アーティフィス)と非現実性をずいぶんと率直に宣伝するミース風建築の保護施設の内部へと移行していったのだ。

 

若いハリウッドの住人たち、ファッション雑誌の表紙に登場するようになって久しい彼らは、リチャード・ノイトラ設計の邸宅を愛する。*4最新流行の「クラシカルな色」はグレーだろうが、なにより肝心なアクセサリーは疑問の余地なくネルソン・ベンチだ。*5ジル・サンダーがデザインしたパッド入りの白いドレスも、ソル・ルウィット風のグリッドから成るラッピング抜きでは、いかほどのものでもない。「未来が何を運んでくるのか、わたしたちにはわからない」と、サンダーは言うが、どうやらその未来にはドナルド・ジャッドの椅子(クラインの私的なコレクションの一部であり、彼の98年秋季コレクションの際、小道具として使用されている)が含まれるべきであるらしい。スティーヴン・マイゼルが撮影した、カルバン・クラインのニュー・カタログに登場するロバート・マンダル設計の邸宅は、実に中性的(ニュートラル)な、脈拍の静止した世界であり、クリスティ・ターリントンとケイト・モスが双子の姉妹のようにその中に閉じ込められている。これはなかなかたいした出来だ。その裏側では ファッションが貫き入り込むことの不可能なものとして護られている、そんなバリケードとして作用する。極端なものは何ひとつ存在しない。ライティングとコンクリートの鋭いへり(エッジ)を除いては。衣服は柔らかくウール地、淡いグレーも黒いスクープネックも、ほんの少しだけあしらったレザーも、すべてが細心の配慮のもとに「趣味のよさ(グッド・テイスト)」を物語る。ケイトとクリスティは、フェルメールの絵画に現われる高貴な主人に仕える侍女たちに似た男性の相手役たちの隣で、腰掛けに座ったり身を硬くして寝そべったりしている。『wallpaper』誌に現われるモデルたち、家具を飾り立てるために服を身にまとう彼ら同様、このカタログのモデルたちは生気のかよわない(ライフレスな)スタイルの中へ溶け込んでゆく。1980年代終わりの同性愛者、異性愛者、入り乱れてのカントリー・サイドへの遠出から、「CK1」に登場する「なんでも、なりたいものになれ(Be Anything.)」と呼びかける浮遊する一団まで、これまでのありとあらゆるカルバン・クラインのキャンペーンに対するアンチテーゼとなっているのだ。ファーニチャーの持つセクシーさを高揚し、ディナー用の食器 セットをいきいきとさせるために『wallpaper』誌が掲げた利口なアイディアとして端を発したものは、あまりに実生活に似かよったものとなりすぎたファッション・フォトグラフィを脱活性化するためのひとつの手段となったのだ。

 

おそらくわたしたちは、ファッションが非現実的なものとして自己主張をはかる時にこそ、もっとも安全な身でいられるのだろう。棚の上高く、埃や分泌液を滲ませる腺とは無縁の所で差し出される時、ファッションは、紛いもので美しく、遙か彼方にあるものとして、ほれぼれと感嘆されるのだ。それがまるでわたしたちそのものであるかのようなふりをするとき、ファッションはもっとも危険に満ちた、効力を保持したものとなる——まったくそれらしくありたいと思ってしまうことは容易なのだから。非難を浴びせかけられたいま、初めて深刻に受けとめられて、ファッションは白い部屋の眩しい輝きの奥底に、鬱積した燻りを隠し持っているのだ。プラダの場合、靴と足首がその焦点となる。折れ曲がった身体は、イームズがデザインした矛盾に満ちた外観のプラスティック製ラウンジチェアを思い起こさせる。貞潔さに覆い込まれた閉所恐怖症は、窓すらももうひとつの純白のとばりでしかないというメンズ・プラダの広告において、その代価を支払わされる。真空パックのヴューイング・ルームの中、うっとりと見とれてしまうようなトップ・コートの袖口がはためく。これ以上 ないほど微かな震えの音を伝えながら——。

「CK1」広告の中ではモデルの黒い服が、白い(社交のための)箱(ボックス)やキューブと コントラストをなすように、あるいはそれらを攻撃して犯すべく、使用されていた。チェルシーの画廊で最新作を披露したセアラ・ルーカスの用いた煙草の臭いや燃え崩れた車の場合と似ていないこともない。*6新しい白い邸宅の中では、モデルたちは海を眺めようと首を伸ばす未亡人のように窓から外をじっと見入っているが、その海は舗装された通り道が突っ切る芝生の広がりでしかない。それは、アン・リー監督の『アイス・ストーム』が描くコネティカット州のニュー・カナーンを装った、ニューヨーク州ベッドフォードの薄気味の悪い郊外ではなくて、近隣の住人たちがお互いの家に気づかれることなく滑り入ることもできるような、割り当てられた広々とした空間。*7白い家の中では、ターリントンとモスはただ率直に語るべき言葉を何も持たない。もしかして、こだまが大きく響きすぎるのかもしれない。かたわらのジン・トニックなしでは、彼女たちは、この屋敷がほのめかすちんぷんかんぷんの言語が奏でるスイングに呼応できないだろう。飲み物を手にしている男性がいるが、彼がそれを口にすることがないのは明らかだ。「動作は抹消されるべき」という意図が漂って いる。人物たちは実際、単なる花瓶かクローム製のフロアランプの延長物にすぎない。住居としての家屋の使用価値は消え去り、そのストラクチャーは、根こそぎにされたかのように見えながらも、写真家のスタジオへと引き上げられてゆく。家はひとつの場所というよりもむしろ、上出来の小道具であるかのような感じだ。

 

善、清潔さ、消去のメタファーとしての白さは、マックス・マーラのモデルとなったマギー・リザーのメーキャップの上にまで遠征している。リザーの眼の下に引かれた白いラインは、白い背景を拾い上げて彼女の瞳の虹彩を洗い流そうと迫ってくる。その効果のおかげで、彼女はまるでプラスティックでできているかのように映る。ファッションにとっては新しいアイディアでもないが、疑わしくも引っ掻き傷だらけにされた剥き出しの腕からの転換ではある。リザーは山本耀司の98年秋のカタログの中で、もうひとつのシュールリアルな空間に再び登場する。イネス・ファン・ラムスウィルドとヴィノート・マタディンに撮影されたこの売れっ子モデルは(その人気の所以は疑いなく、彼女の色白の肌と軽微な容貌が氷と生気の欠落を投影するのにうってつけだということにあるが)屋外空間の中に存在する「室内」となる。これはほとんど、最近の白い家具の流行をパロディ化した世界だ。ペリアンとル・コルビュジェが設計した学童の部屋ぐらい単純明快なベッドやテーブルや椅子の切り抜きが、芝生の上に配置されている。*8家屋はあまりに極小化されその壁や基盤自体を失ってゆく。

 

ある意味で、ファッション広告は、ミニマリズムという防空壕に移住していったのだろう。ミニマリズムの場合同様、これら一連の新しいファッションの背景幕は、いかなる可変要因も素通りは許されない注意深く制御された世界の一部をなす。モデルの実生活は、その片鱗すらこの絵の中に差し挟まれることはなく、 彼らは写真家とアート・ディレクターとコラボレーションしながら服と競う。性と汗と動きを表象する油に光ったメーキャップから、光沢を抑えて頬骨と額にアクセントをおくメーキャップへの移行は、モデルたちが演技する者からノスタルジックなマネキン人形に変化したということだ。この変化は、メンズ・ファッションとそのモデルたちは「おかまっぽい」という世の評判を振り落とすために、ホモ・エロティックなグラビアがヘテロセクシュアル風のカップルの起用に取って代えられた、80年代初頭の『Gentlemen's Quarterly』誌が行なった編集方針の抜本的な見直しと同じくらいラディカルな転換だ。

 

この15年かそこらの間に、ミニマリズムは快適な空間、よい投資となった。いまでは時代物となったように見えるということも有利に作用している。その形態に関する動機づけにおいてかくも度量の狭さを示したミニマリズムは、罪のない、少々純粋素朴なものにすら映る。メタファーで取り散らかされることもなく、それは、美術の荘厳な館、威厳ある自信で満たされ磨き上げられた男気(マチズモ)の塊となった。ドレスやカシミアのショール、木製の器を据えるのに、これ以上の場所があるだろうか? この場所は、あなたについて何ひとつ暴きたてたりしない——そんな状況こそ、ファッション(それにギャラリーも)が売り込んでいる媚薬の秘訣なのかもしれない。新手のファッション広告が売り物にするものとは、強い孤立感なのだ。セクシュアリティは、実際これまで随分と大げさに演出されてきたが、ぴたりと停止させられた。ジャッド・チェアはことに尻には満足いかないものではあるが、腰掛けのエッジ、それが辺りに投げかける知的な重みが、感情を覆い隠すマスクをつくりだす。 広告は、動作や触感すらもが排除された、 一種の共和党派的な退屈と安楽を売り出している。あるいはひょっとすると、これこそ、批判と脱構築に対するファッションからの返答なのかもしれない。それが伝統的に供給してきたファンタジーを意図的に差し控えることこそが——。

 

疎外された青春の擬態から、居住者を持たない、ジャッドにも似て劇場的(シアトリカル)な、異質な空間へ、モデルは移っていった。モデル一人ひとりが、多年草のように切れ目なく延々と立ち戻って来る通りすがりの人間だ。プラダの女性服広告の場合、ふたつの可能性が提示されている――砂漠か、あるいは白い、大きなオフィスで目にするような類の細かく仕切られた部屋か、だ。その広告のひとつでは、女がひとり、うたた寝しそうな様子で、あるいは毛布の織り目をじっくり調べて、それとも病院で昏睡状態にあるのか、コカインの海に吹き飛ばされているのか、なんとも判別しがたい様子でいる。衣服それ自体には反映されていないかもしれないが、この世界はたしかに、アルベルト・フレイの手によるパーム・スプリングズ、あるいはポール・シュレイダー監督の映画『アメリカン・ジゴロ』のそれだ。*9そこでは、近代的な白い邸宅は、モニターで存分に監視されたデカダンスの場となる。

 

一見すると白は処女性と無邪気さのスタンダードであるかのような印象を受けるが、そのうつろな反響、境界線の不可視性が、白をいっそう、脅かし漂うものにする。人を寄せつけないこの防腐剤の壁を、それでもわたしたちは自ら承諾してしまっていると言うべきなのだろう。いったい誰が、ぶざまな指紋がいっぱい付いてしまいそうな空間に踏み入りたい と思うだろうか? ファッションは、それ自体の到りうるもっとも高い極みにあって、わたしたちの大多数を超越してしまう。わたしたちはそれに見合うほど「よく」はないのだ。それはわたしたちの憧れるモニュメントであるが、いつまでもお預けを喰う苦悶の中で、わたしたちはただぱらぱらとファッション・ページをめくってみることしかできない。もしもレイチェル・ホワイトリードがプラダのスペースから鋳造したとしても、崇高な無のみが真実彼女のもとに残され、彼女がかつてそこにいたことの証しとなるものなど、何ひとつ手にすることはできないだろう。*10

 

 

 

 

First published as “No Place Like Home: Collier Schorr Returns Fashion's Frosty Gaze”,

in frieze, Issue 43 (November, December 1998), frieze / Dulian Publications, London: New York: Berlin.

◎訳注

 

*1……

リチャード・アヴェドン (Richard Avedon) :写真家。四角い簡潔な平面としてフレーミングされた空間内に、クローズアップで大きく人物を配置・撮影した作風で、1960年代以降、 著名人ポートレイト写真を多数撮影し、ファッション写真界を代表する大御所となっている。

 

*2……

ジョン・ポーソン (John Pawson) :建築家。1995年に、ニューヨーク、マジソン・アヴェニューのカルバン・クライン店舗を設計。翌96年に刊行された著書『Minimum』 (Phaidon Press, London) は、ドナルド・ジャッドやダン・フレイヴァンの作品から、ストーンヘンジ遺跡、B2爆撃機、シェーカー教徒の家具、スミッソンの《スパイラル・ジェッティ》、竜安寺石庭、古代エジプト建造物まで、ポーソン流「ミニマム」の審美学に適ったとされる古今東西の物体を、選りすぐって並列し、話題となった。簡素で幾何学的な構成を「洗練された」外観を呈する物や空間が、各々の生み落とされた文化的・歴史的文脈から切断され、〈自発的な貧困〉というある倫理的な精神を共有する具体例として取り上げられている。発想としては、ル・コルビュジエが 『Vers une Architecture』 (1923, Paris) において、たとえば、バシリカ建築からパルテノン宮殿への建築史上の推移を、Humber 社の1907年製の自動車から Delage 社の1921年製のスポーツカーへの移行と照らし合せて、それぞれの造形を捉えた写真を併置する手法を思い起こさせるものだ。また、「最小限の美」の具現の中に、ある種のモラルを讃えようとする態度自体、もちろん、ルースやデ・スタイユ、ミース以降の多くのモダニスト建築に認められるものであるだろう。むしろポーソンの書籍の興味深さは、ミニマム、あるいはミニマル・アートを含めていわゆるミニマリズムとして分類されてきたさまざまな事物が、建築やインテリア・デザイン、ファッションなどの商業活動の分野を通じて、いかに「高級な嗜好対象」の一種として、広く普及し価値を持つようになってきたかという現状を、この本の刊行自体が示しているという点にある。しかしこの普及の経緯において、たとえば、現在ミニマル・アートとしてカテゴリー化されている個々の美術作品が、本来往々にして「素材への忠誠」のためにはほとんど「趣味の悪い」と思われるような(かならずしも禁欲主義や理性に対するわれわれの憧憬にかなわない)造形構成を示しているという事実は、排除されねばならなかったとも言えよう。

「ニューヨークのカルバン・クライン本店において私がつくりだしたいと望んでいたいちばんの印象とは、「封じ込め」の印象だ。外界はフィルターで濾過され、服が舞台の中心に据えられ、来店客は、穏やかでゆったりとしていながらも構成立てられた雰囲気の中を移動してゆけるのだ」と、この著書の中で自ら語っているように、ポーソン、そして他の多くの建築家やデザイナーたちが近年多量に世に送り出している「ミニマルな」空間は、一見、〈自発的な貧困〉を奨励する「虚飾に飽きた空間」のようでありながら、現実には、極めて精緻な計画と配慮のもとに人為的に練り上げられた「殺菌処理済みの空間」とも言うべきものだ。

 

*3……

ヴィンセント・ギャロ (Vincent Gallo):1962年、ニューヨーク州バッファロー生まれ。米国のモデル・映画俳優・監督・写真家・ 画家・ミュージシャン。出演作に『Go! Go! L. A. (Los Angels without a Map)』(ミカ・カウリスマキ監督、1998)、初監督映画 に『バッファロー』(1998)がある。

 

*4……

リチャード・ノイトラ (Richard Neutra):1892年、ウィーン生まれ。1925年、渡米。1970年没。建築家。ロサンジェルス近郊を中心に、モダニズム邸宅を設計したことで知られる。代表作として、《ロヴェル邸 (健康住宅) 》(1929)、《カウフマン邸 (砂漠の家) 》(1946)、著書に『Mystery and Realities of the Site』(1951)がある。

 

*5……

ジョージ・ネルソン (George Nelson) :デザイナー・建築家。1946年、ハーマン・ミラーのために、初のオフィス・ファニチャーを設計。以後このデザインは、戦後モダニスト流オフィスの原型となった。本文中にある「ネルソン・ベンチ」は、丈の低いコーヒーテーブル。腰を下ろすベンチに似ていることから、この呼び名で知られている。

 

*6……

セアラ・ルーカス (Sarah Lucas):1962年、ロンドン生まれ。美術家。

 

*7……

アン・リー(Ang Lee):1964年、台湾生まれ。映画監督。『ウェディング・バンケット』(1993)、『いつか晴れた日に (Sense and Sensibility)』(1995)などの作品で知られる。ニューヨークの新進小説家リック・ムーディによる『アイス・ストーム』(1994)を映画化(1997)。1970年代のコネティカット州郊外に住むふた組の家族を題材に、表向きには理想的な暮らしを営 むアッパーミドル階層の家庭が、現代の「郊外病」とも言える空疎な人間関係や孤独感を抱 いているさまを描いた。

 

*8……

シャーロット・ペリアン(Charlotte Perriand):1903年、パリ生まれ。1920年代より、ル・コルビュジェとの共同作業で知られるようになったインテリア・デザイナー。

 

*9……

ポール・シュレイダー (Paul Schrader):1946年、ミシガン州生まれ。映画監督・脚本家。『タクシードライバー』(1976)の脚本、『アメリカン・ジゴロ』(1980)の監督・脚本で著名。

 

*10……

レイチェル・ホワイトリード(Rachel Whiteread):1963年、ロンドン生まれ。美術家。家屋、家具、ベッド、暖炉、書棚など、さまざまな私的・共同体的記憶の浸透した空間の内部を型取り、ゴム、石膏などの素材を用いて鋳造、ミニマルな視覚言語を援用しつつも、その鋳型となった物体や場のみが内包している固有の歴史とその痕跡を具現化す立体作品を制作する。代表作に、ロンドン東部で取り壊し予定のテラスハウスの内部をまるごとコンクリートで型取った《無題(家)》 (1993)など。

 

 

 

◎訳者解題

ファッション・フォトグラフィにおける、

ミニマム風空間構成と白の隆盛をめぐって

 

 

本稿は、英国の美術雑誌『frieze』 (Dulian Publications, London: New York: Berlin.) の1998年11・12月号に掲載された、アーティストでライターのコリア・ショアの文章を翻訳・ 転載したものである。

昨今のファッション・フォトグラフィにおけるミニマム風空間構成と白の隆盛という現象に焦点を当てながら、この現象の中に反射され映し出されているいくつかの問題——動作やリアルなものの抹消、セクシュアリティの希薄化あるいは隠蔽、洗練され制御された新たな保守主義の気配——などを、ひとつのパースペクティヴ上に解き開く小品、とでも要約で きようか。多国籍企業となったブランドのキャンペーン広告写真は、もちろん、流行(ファッション)を売るために描き出され、広く世に普及してゆく強力なヴィジュアル・ソースだが、この文章ではことにカルバン・クラインの送り出してきたイメージ群を中心に据えて、そのほかいくつかのメゾンの広告を分析している。

 

数あるブランドの中からカルバン・クラインをタイム・ラインとして取り上げるという切り口は、ふたつの意味において興味深い成功を収めている。ひとつは、1983年のブルック・シールズを起用した挑発的な広告以来、カルバン・クラインは折りにつけ社会的な論争を呼び起こすようなイメージを輩出してきたブランドであり、キャンペーン・フォトの分析をとおしてそのイメージの効力をより広いコンテクストに開く作業にはうってつけであるという意味。ことに90年代前半には、毎シーズン新たなイメージを発表するごとに「ヘロイン中毒者と未成年ポルノ」を彷彿とさせるなどという理由からスキャンダルを呼び、米国ではクリントン大統領を巻き込んでの名指しでの非難攻勢の的となった状況を考えれば、本稿が前提としている90年代初頭から後半までのファッション・イメージの推移、そこに反映 される時代の空気の変化を辿るには適したブランド選択だと言えるだろう。

もうひとつは、カルバン・クラインが売るイメージ、そして実際の商品が長らく特徴としてきたミニマルなルック(簡素な機能主義、計算された「気負いのない自然体指向、中性的であることの魅力、生々しい器官の二極対立から逃れ、所有者/内容物を持たない清潔な容器としての身体」が、ファッションや建築、インテリア/プロダクト・デザインなど、多方面 における近年の流行・動向に符合するものとして、あらためて意識されるようになったという意味だ。

 

ここでこの記事が前提としている80年代末以降、90年代後半までのスタイルの変遷を手短に振り返ってみると、いくつかのメルクマールとなる出来事を思い起こすとともに、スタイルの普及に伴う解釈のずれやその後の展開において変異あるいは細分化してゆく潮流に気づく。

ファッション・フォトの流れを追ってみれば、コリーヌ・デイ撮影、ケイト・モス主演のカヴァー・ストーリー、「The Third Summer of Love」が表紙に登場した『The Face』(英国のスタイル/ファッション誌) 1990年7月号が、まず新しい時代の波をつくったと言われている。当時まったくの無名であったこのコンビは、ファストフード・チェーンの制服やさえない郊外の町で燻っているありきたりな高校生の日常、小柄で痩せた身体の醒めた顔つきをしたティーンエイジャーの「ちっともドラマティックではないリアリティ」を、ファッショングラビアの世界へ持ち込んだ。この「ドレスダウン」の傾向は、デイヴィッド・シムズやマリオ・ソレンティら、彼らと同世代の若いフォトグラファーの仕事にも後押しされて、広く欧米に普及してゆく。93年1月には、米『Interview』 誌がデイとモスを大きく取り上げ、同時期以降、モスはカルバン・クラインの顔として数多くのキャンペーン・イメージに登場することとなってゆく。

 

こうしたファッションにおける「ドレスダウン」の台頭の背後には、もちろん、より広い分野での類似した流れがあった。 ことに大きな影響を与えたのは、やはりユース・カルチャーの代弁者としての音楽であっただろう。デイとモスのデビュー記事のタイトルがヒッピー文化の頂点ともなった1968年の「ファースト・サマ ー・オブ・ラヴ」、そしてマンチェスター・ サウンドとアシッドジャズが盛り上がっ た88年の「セカンド・サマー・オブ・ラヴ」 を継ぐ、来たるべき時代の代名詞となるものとして銘打たれていたのは興味深い。 80年代の最末期から90年代初頭にかけては、英国内では中流家庭出身の高等教育を受けた知的で内省的な若い世代のミュージシャンの多くが、育ちのよさとは裏腹な轟音ギターが鳴り響くポップなノイズ音楽的ロックを発表していた時期であり、またアメリカでは、長らくNY アンダーグラウンドの大黒柱であったソニック・ユースが89年にメジャー・レコ ード会社ゲフィンに移籍、シアトルを拠点とする同社所属のニルヴァーナが起こした「グランジ」旋風と相まって、英国のそれよりもさらに暴力的で殺伐とした騒音系ポップを商業化した。ひと昔前であれば自主制作ロック/サブカルチャーの範疇を越えることはなかったであろうこの種の殺伐とした騒音ロックとそれが背負っていた「グラマラスどころか最低」なライフスタイルのイメージがかなりの規模で流通していたわけであり、ファッションの「ドレスダウン」化が受け入れられ加速される素地はできていた。もちろん、ファッションが先か音楽が先かは、鶏と卵の話のように無意味であり、「脱力系(スラッカー・ジェネレーション)」、「負け犬気質文化(ルーザー・カルチャー)」として その後カテゴリー化されることとなるある種の時代のムードの中から、同時多発的に種々の現象が世の注目を集めることとなったと言ったほうが正確だろう。ダグラス・クープランドが1991年に発表した 小説『ジェネレーションX』もまた、高学歴のアッパーミドル家庭出身の若者たちが、能力や出自から想定されるそれをはるかに下回る社会的役割、地位、職業を自発的に選択し、私生活重視の脱力したライフスタイルを送るさまを描いていた(余談だが、クープランドはこの作品が格好の世代総称をメディアに与えたせいで「スラッカー・ジェネレーション」の代弁者のように受け取られ不当に低い評価を与えられているように思う。彼の本領は短絡的 な世代論よりもむしろ『マイクロサーフ』に集結されているような、コンピューターが意思疎通の媒介となってゆく時代における信念の在り方、彼流の仮想神学にある)。美術や写真の分野で起こったプライベートなものを見直す傾向もこうした一連の他分野での動きと無縁ではなかった。その極端な例が、ラリー・クラークやナン・ ゴールディン、マイク・ケリーの「再発見」として現われ出た。

 

さて、ファッション写真の流れに戻ると、上述のように一世を風靡した「グラマラスでないスタイル」の動きは、1993〜94年頃には「グラムールの復権」を唱える声によって攻撃を浴びることとなる。 この時期以降、70年代初頭風の虚飾の限りを尽くすドレスアップ、当時のヘルムート・ニュートンの作品を思わせる人工的なデカダンスと官能に溢れるイメージが乱出する。他方では、「グラマラスでないスタイル」を極端に突き進めることでドラマ化したイメージ(麻薬中毒患者を思わせるとされた「ヘロイン・シーク」のイメージ群はその一例だ)が流通していた。つまりは、唯一の支配的なスタイルというものが定められない、細分化したさまざまなスタイルの混在する状況が、もはや否定できない事実と化していった時代であったとも言える。

 

既存のファッション専門メディアが明確なスタイルを掲げ出す場として機能不全を起こし始めていたとき、異例の成功を収めた新参者が、本文中でも言及されている『wallpaper』誌だ。「都会派モダニストのための雑誌」と銘打って1996年秋にロンドンにて創刊されたスタイル/インテリア・デ ザイン/建築/ファッション/トラベル誌だが、その誌面には洗練されたデザインの、適度にカラフルで快適なミニマム風(ライフ)スタイルが溢れ返る。高学歴、高収入、独身、キャリア志向型、さしずめ「1990年代ニューヤッピー」とも言うべき購買層をターゲットに自主採算のもとスタートし、創刊後半年あまり、わずか3号発行した時点で米・巨大メディア・コーポレーション、タイム社に破格の買収金を受けて移籍した。カナダ人編集長のブリュレは彼の掲げる「理想のライフスタイルのイメージ」について以下のような興味深い発言をしている。

「七〇年代初めの一瞬、あれは、もっとずっと生々しくて実験的だった60年代からの逸脱 として出てきた時代、奔放で放蕩な贅沢さに魅せられた新しいタイプの享楽主義の時代だった。ぼくらが『wallpaper』でやりたかったことっていうのもこれと似ていて、90年代初期への反動つまり、街へ出かけ、エクスタシーの錠剤を飲み、泥臭いフロアで踊り狂うとか、そういうことへの反動だった。90年代の後半、いまの時代とあの70年代当時の間には、 確かになにか相通じるところがある。楽観主義を捉えること——どっちの時代もそれを追い求めてる。ぶざまな部屋になんて俺たち住みたくないし、ずたずたの(グランジ風の)服を着て両眼の真下にでっかい隈をつくってさ、そんな生活スタイルのイメージをここのところずっとファッション・メディアに力ずくで売りつけられてきたことに嫌悪感を感じてる。俺は、人は健康そうに見えて欲しいし、インテリアは明るいものであって欲しい——しかもちょっとばかりアーティフィシャルにね。鏡とスモークでイメージを作り出すのさ。」     

 

最後に、この原文が発表された98年末以降のカルバン・クライン広告についてひとつ補足しておくと、マリオ・テスティーノ撮影の99年春夏キャンペーン・イメージでは、空間はミニマムを通り越してスピリチュアルな世界にまで極限化してしまった。たとえば、淡い碧がかったグレーの、無機質でもはや小道具すら皆無の空間の隅で、黒髪の男女一組のモデルの全身が大きく映し出されている一枚では、白いスーツの上下に白いサンダルを身につけた男と、白いノースリーブのシャツの上に淡いベージュのスリップドレスをまとい、白いヒールの低い靴を履いた女が、手を差し伸べ合っている。イメージの中心点となるのはこの緩やかに開かれた、互いに触れそうで触れ合わないふたつの手であり、男と女の眼差しは行き違って遭遇することがない。女は左斜め上になにかの啓示を認めたような訳知り顔をしており、男は虚をつかれたかのように口を開けてぼうっと立ちつくしている。静かなドラマティシズムが照明によって演出され、テレパシーによる交信が可能となるような不可視の四次元空間を重ね合わせた極度に平坦な壁面とその接線のみで構成される二次元的な)空間が舞台となっている。

初出=『武蔵野美術』No.115、2000年冬号、武蔵野美術大学出版局:東京
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