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マシュー・バーニー

——インタビュー、1997

All Works © Matthew Barney

屋内を這い回るロッククライマー、ボールの代わりに大きな糖の錠剤を狙って駆けるアメフト選手、内臓のように変形したトレーニング機器から溢れ出たワセリンにまみれるバグパイプ吹き、下着姿にハイヒールでフットボール・レースに加わるドラァグクイーン、ボディビルダー紛いの妖精、リムジンでマンハッタンをとばすサテュロス。異種混合の視覚言語を駆使して「現代の神話」を紡ぎ出すアーティスト、マシュー・バーニー。それは無限の可能性を求めて戦う「肉体」のコスモロジーだ。「性」の名付けを拒み幾様にも自らを産みつづけようと見果てぬ夢を見る「肉体」は、生殖という宿命に抗う自己完結的で純粋な欲動の錯綜するエネルギー・フィールドと化してゆく。「デ・ジェンダリズム」展を機に来日したバーニーの独占インタビュー。

葛藤する身体(からだ)/オーガニズム

——初期のビデオ作品にあるように自分の肉体を使ったパフォーマンスがあなたの活動の原点にあったと思うのですが、それは運動選手や医学部予科生だったというパーソナルな体験と関係しているんでしょうか? 実際、自分の身体を使ったり鍛えたりすることの魅力ってあなたにとってどんなものですか?

 

バーニー

「心的な状態とか、僕の語ろうとしている物語や考え方に関わってきて…。自分でもいつも不思議に思うんだけど…抵抗することの快感とか…。コンセプチュアルなレベルで言うと、ちょうど筋肉がダメージを受けてさらに成長するように、あるかたち(フォーム)がどうやって生まれ出てくるか、そういうことを捉えるのにいい方法なんだ。」

 

——そうすると身体的(フィジカル)なレベルでの忍耐や超越が心理的な側面と深く関わっている、と。

 

バーニー

「ああ、それは本当にそうだね。結局のところ、僕は今はむしろダイレクトに物語を操ることに関心があるんだけれど、その物語っていうのは僕が「知っている」と感じるもの、運動選手としての自分の経験から理解するようになったものなんだ。その物語には内的にのみ成立するロジックがあって、さまざまな登場人物(キャラクター)に割り振られた身体性のいろいろな側面が、ずっと発達しつづけるように意図されている。ふたりのキャラクターが自分自身の内部で葛藤しだして……。(身体性の)発達が続いてゆくためにこの葛藤が発生しつづけなきゃならない。」

 

——今でもスポーツの訓練してるんですか?

 

バーニー

「いや、もうぜんぜん。競争を意識して励んだりはしてないね。もう十分やったよ(笑)。」

 

——今の身体性の話と関連してくると思いますが、変形してハイブリッドになった身体を持つキャラクターをよく作中に導入してますよね。素材の面でも、変容する物質——養殖真珠、代謝の象徴としてのタピオカなど——が目につきますが……。

 

バーニー

「モルフォロジーとか有機的組織体(オーガニズム)内部の変化とかの問題で、ある種の必要性があり、キャラクターであろうとスカルプチャーの構成要素であろうと、その必要性が作品の身体性を決定するんだ。」

 

——例えばサテュロスなどは、半獣半人の曖昧な身体を持っていますが……。

 

バーニー

「サテュロスは《オットーシャフト》から生まれてきたんだけど、その作品は、根本的には森林の中で互いを追っかけ合うサテュロスとニンフの奇蹟の物語を扱っている。アル・デイヴィス*1がジム・オットー*2にバグパイプの吹き方を教えるシークエンスがあるけど、そこに出てくるのは創成期の頃のバグパイプ、一対のパイプ、つまり「パンパイプ」*3なんだ。(《オットーシャフト》の)物語が神話の範疇から外れていくに従って、そういった(変形する身体の)生理学のほうへ向かってゆく。身体分裂とか、それ自体にコンセプトとしてはあまり興味がない。」

未決定の領域

——《クレマスター》*4のロゴについて話してもらえますか? カプセルのような楕円形が棒で遮断されているあのかたちはどこから来たのですか?

 

バーニー

「あのかたちは《クレマスター・シリーズ》が始まる前にもう使ってたんだ。フーディーニ*5と関係していて、自分で自分に目隠しするという考えからきている。クリエイティヴな方向へと進んでいくためのものだ。そんなわけでこのかたちが自分自身に課す拘束装置を備えた有機的な開口部のシンボルになったんだ。それと同時にこれはまた、(《クレマスター1》の中で起こる) 出来事の舞台となる競技場の俯瞰図でもある。この種の心理的な活動の入れ物になる建物のかたちだ。

 

——今回フィルムと関連作品別々に公開されるわけですが、それはどうして? 各々独立したものなわけですか?

 

バーニー

「《クレマスター》は2作とも劇場のコンテキストにあるものだから。初めから終りまでちゃんと見てもらわなきゃいけない。」

 

——(ギャラリー内の壁に設置されたモニターから流れていた)初期のビデオ作品とは違うわけですね。こう、どこかメカニカルで、いつまでも終らないような印象のものでしたが。

 

バーニー

「ぜんぜん違うよ。僕のつくったもののうち、単一回路(シングル・チャネル)の作品で(物語に)始まりとエンディングがあるのはこの2作くらいじゃないかな。初期の頃の作品は、 もっとぐるぐると円環を描いているようなものだった。《クレマスター》も、物語の構造からすると、円環的なものだけど。(完成した)作品としては、線的(リニア)なフォーマットで見せるのが合っている んだ。例えば《ジム・オットー・スイート》中の、天井中をクライミングする作品とかも、性転換者で始まり、終っているっていう意味で、線的なストーリー構成を持っているけれど。両性具有の目隠し、『女性』性の目隠しというプレッシャーを潜り抜けて、《オットーシャフト》の物語が展開し、またプレッシャーの領域へと下降してゆき、性転換者(トランスセクシュアル)に戻る。また最初に戻るんだ。」

 

——その点《クレマスター1》はクライマックスの気配がほのめかされていますよね。音楽は盛り上がってゆき、コーラスガールたちは卵巣のフォーメーションを描く……。

 

バーニー

「卵巣のかたちを描いているわけじゃないよ。卵巣になる寸前のかたちだ。いろんな振り付けを展開していって、最終的にはつまり……ゴールポストと飛行船のダイアグラムを描く。アメフト場の端に位置するゴールポストの上空に浮かんでいる2体のツェッペリン、これが性が分化する前の生殖システムのダイアグラムを示唆している。飛行船は決して固定位置に留まらない。競技場の上を浮遊しつづける。だから、物語は、本当の意味では、決して完結しない。同じように(《クレマスター4》のロゴとして登場する)マン島の伝統的シンボルの3本の脚も、青、黄色、緑、各々の間にヒエラルキーをつくることなく存在しつづける。(《クレマスター シリーズ》となる)5つのプロジェクトがすべて出来上がって、一連のストーリーとして集まったら、もっと完結した雰囲気になるかもしれないけどね。」

 

――《クレマスター1》は全編を貫いてどこか静謐な雰囲気が漂っています。秩序のエレガンスというか……。2体の飛行船、2色のブドウ、2層の環を描くコスチューム、2人のタイトルガールなど、 シメトリカルな構成のせいもあると思いますが。 無垢なエネルギーの放出とそれに反作用する力の拮抗が直接的に出ていたこれまでの作品とは、ちょっと違う印象です。

 

バーニー

「似通った悲劇が異なる様相を取っているんじゃないかな。どの作品もみな、均衡に到達する可能性のないシステムの内部に生じる闘争を扱っているっていう意味で悲劇的だ。君が「静謐(トランキリティ)」って言い表しているもの、それは僕が「メランコリー」って呼ぶものだと思う。シメトリーはけっして追及しきることができない。その意味では、グッドイヤーは悲劇的だ。彼女にとって重要なのは、2体の飛行船をゴールポスト上に浮かばせつづけて完全なシメトリーの内に留まらせることなのに、彼女は本当にはそれができないんだから。」

 

——なぜ完全なシメトリーをえがけないながらも、その試みを維持しなければならないのでし ょうか?

 

バーニー

「飛行船が地上に下降し始めたら、この有機的組織体(オーガニズム)は自分自身を定義付けしなきゃならなくなるから。」

 

——では飛行船が浮かびつづけるかぎりは…。

 

バーニー

「全て問題なし。」

 

——もしも落下したら…。

 

バーニー

「そしたら僕はもうこれから作品をつくれなくなっちゃうよ(笑)。」

メランコリーと希望

——「メランコリー」の話に戻りますが、たしかにこの作品を見ていると、どこか冷めた哀しさを感じますね。懐かしい昔の映画に出てくるようなセッティングのせいもあると思いますが……。

 

バーニー

「1930年代の映画だよ。」

 

——何か特定のフィルムは頭にありましたか。

 

バーニー

「ハリウッド製のミュージカルの名作みんな、あの手のスケールの大きいプロダクションだね。もちろんストーリーもあるけれど、もっと肝心なのは振り付けという類のスペクタクルだ。そこには信じ難いほどの悲哀がある。国を大恐慌から救い出そうという意図をもって製作されたこととどこか関係しているんじゃないかと思うけど……。」

 

——面白いですね 。スペクタルとかフェスティヴァルとか、ある種のヒロイズムに潜んでいるメランコリックな要素は、つねにあなたの作品のどこかにあったと思うんですが……。

 

 バーニー

「同じくらい、希望にも関心をもっているよ。どうにかして乗り越えようという希望をもって、闘いの場へ入ってゆくとしたら、それはつまり……。あるフォームを生み出すとかアートをつくるということから言えば、そのフォームを、ついに完結させうる可能性というのは存在しない。物質性を超越する可能性がまったくないと言うつもりはぜんぜんないんだ。 魔法のような魅力をもつフォームをつくるということは、たしかに、間違いなく、あるんだから。ただ、僕が考えているのは、何かを真実完結させる可能性はない、ということなんだ。だから、物語の範疇、スカルプチャーのフォームの範疇では、(そういう)可能性がないという意味で、その結果は悲劇的だと思う。」

 

――逆に言えば可能性が開かれてるってことですね。いつも何かがあなたの手元に残されている。

 

バーニー

「そうだね。」

 

——《クレマスター4》の筋肉が異常に発達した3人の妖精やルートン山羊に成人する前段階の候補生、《拘束のドローイング7》のサテュロスの子どもなど、性差の曖昧な人物がよく登場しますね。非常に人工的な感じの。今回の作品では、登場人物はみな女性で、少なくとも外見上は、じつに洗練され滑らかで「女性的」、性的に明確な感じですが、それは意識的なチョイスだったんですか?

 

バーニー

「僕にとって興味深いのは、どこまで物語がヴィジュアルな言語のさまざまなモードに到達しうるかってことなんだ。《クレマスター1》の場合、1930年代のミュージカルのジャンルの中でストーリーが展開する。(男/女/中性的な身体つきとか)そういう形態論的な問題とはぜんぜん無縁で、むしろより物語の問題と関わっているんだ。例えば30年代の建薬とか映画とかに登場するある種のフォーム、プ ールサイドを舞台に登場する女性の身体の曲線とか、30年代風の白い衣装だとか、ラナ・ターナー*6の身体の曲線とか、プロステティック(人工的補充物)やテフロン板*7の曲線とか、クライスラー・タワーの曲線とか、みな同じなんだ。ある種の類似性があって、フォーマルな関係に関わっている。例えば《クレマスター4》はゴシック・ホラーの領域で展開していて《クレマスター1》とはまったく異なるものだけれど、どちらも同じようにうまい具合に物語をはめ込む器になっていると思う。」

 

――そうですね。今回の作品のキャラクターも人工的という点では同様かもしれない。生身の女というふうには感じられないし。

 

バーニー

「それは、キャラクターを独り立ちさせて発展させていないから。だから彼らへの感情移入を妨げる性質がある。彼らをみな寄せ集めると何か、例えばさっき話していたような悲劇的なものとかになってゆくけれど。」

解放のバルブ

——秩序の問題に戻りますが、飛行船内のブドウの動き、グッドイヤーの靴底から床にこぼれ落ちるブドウの描くかたちが、フィールド場のコーラスガールたちの振り付けをコントロールしているわけですが、このコントロールは完全ではない。スチュワーデスのひとりがブドウを摘み喰いして、まるで何事もなかったかのように澄ました顔をしていたりもする。ほとんど完璧なまでにコントロールされた世界の中にも、偶発的な要素が残されている。面白いですね。

 

バーニー

「実際、その例に出ているとおりで、ユーモアとか空気とか手違いとか、そういうものの小さな放出バルブがあるってことだね。あるシステムをつくろうとアプローチするなかで、システムが脱出弁を必要とする。ちょっとした解放が必要なんだ。僕の場合、ユーモアのほうに傾いてゆくんだな。」

 

——脱出弁ですか。オットーの背番号、000マークの援用といい、スペキュラでこじ開けられる穴といい、「脱出」を示唆する要素は他にも多く作中に込められていると思いますが、それは今出た「解放」の話とつながってくるんでしょうか?

 

バーニー

「さっき出た均衡の問題、完璧なシメトリーの場に到達しようとしているのに、ついにはそこへ辿り着けないという問題と似ていると思う。フーディーニの場合のように、消滅しようという行為は、彼が完全に消え去ることができた時に初めて、本当の意味で、完璧なものになると思う。フーディーニの追い求めていたもの、そのすべては結局…彼の死んだ母親と巡り会おうと消滅していったような……あるいはむしろ、彼自身から(脱出し)消え去ってい こうとする行為だったように思う。」

 

——あなた自身も、自分自身から消え去ってゆきたいというような欲求に駆られたりしますか?

 

バーニー

「そうだな、僕はスカルプターだからね。あるフォーム、そのもの自体から消え去ってゆくことのできるフォームをつくることに関心がある。僕自身もその消え去ってゆくフォームの内に含まれているんだ。」

*1……

アメフト・チーム、オークランド・レイダーズの名将。作中ではバーニーの母親が演じている。

 

*2……

同チームの伝説的選手。人工膝の手術を受けた後もプレイを続けた。

 

*3……

山羊の角と下半身を持って笛を吹く牧神パンから命名されている。

 

*4……

睾丸を包む筋肉組織。温度変化などに反応して睾丸を引っ張り上げる。

 

*5……

ハリー・フーディーニ。1874年ハンガリー、ブダペスト生まれ。1926年アメリカ合衆国ミシガン州デトロイトにて没。見事な脱出術で伝説的存在となった軽業師。オットーとともにバーニーの作中で繰り返し引用されている。

 

*6……

ハリウッド女優。「Dancing Co-Ed (1939)、「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1946)などに出演。

 

*7……

どちらもバーニーが頻繁に用いる素材。人体に吸収されても悪影響がないとして補てつ術などに使用される。

Matthew Barney

1967年サンフランシスコ生まれ、ニューヨーク在住。イエール大学で、』当初は医学を学び、 その後、美術と体育を専攻。89年同大卒業展で、すでにその名を轟かせ、新時代の寵児の名をほしいままに。東京 でも1994年「人間の条件」展、95年「水の波紋」 展に出品した。 作品は、自らが出演するパフォーマンス映像とそこで用いた彫刻のインスタレーションが多い。1997年2月「デ・ジェンダリズム」展のために来日。

初出=『STUDIOO VOICE』1997年?月号、インファス:東京

このインタビュー​も、当時の録音か英文トランスクリプションを保管しておくべきだった。英文が失われているのが悔やまれる。

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