サイモン・パタソン
——複数の知識体系が交差するパラレル・ユニバース

パタソンの名前を覚えていなくても、「ロンドンの地下鉄マップの作品の人だよ」と言えばピンとくる人も少なくないのではないだろうか。《大熊座》(1992)と題されたこの作品でパタソンはお馴染みの地下鉄路線図のフォーマットをそっくりそのまま借用しながら、実際の各路線・停車駅の名を差し替えることである特異な知性のダイヤグラムを描き出した。聖人、哲学者、科学者、探検家、イタリア・ルネッサンスの芸術家、国王等々歴史の教科書を彩る偉人から、サッカー選手やコメディアン、映画スターにジャーナリスト、テレビや雑誌で見聞きしたことがあるような名前まで、すべての人物がアルファベット文字の連なりとして等価還元され同一平面上に並置される。「コロンブス」で始発をつかまえて「プラトン」で乗り換え、5つ目の「ローレンス・オリヴィエ」で途中下車してそれから先は……?
複数の各々別個独立した知識体系の軌道線が互いに共時的なものとして交差するパラレル・ユニバース。私たちはこの空間を探検しマッピングしに繰り出して行く。さまざまなソースから溢れ出る情報、その断片(かけら)をひとつひとつ自在に連結(リンク)させながら——。
〈世界〉をマッピングし、その成り立ちを捉え直したいというこの種の欲求は、パタソンの仕事に一貫して流れる重要なエレメントと言えるだろう。例えば《24時間》(1995) と題されたシリーズ作品では、物質を構成する基本単位である諸元素を原子量に従って整理・分類した周期率表に星の名前が書き込まれる。ベテルギウス、リブラ、プロシオン……。夜空を覆う塵のような星々。その一点一点が繋ぎ留められ星座をかたちづくり、天空はある一定の秩序の下に理解され、海を渡る船乗りたちの地図として機能するようになる。世界を体系化するためのふたつのメソッド——本来異なる次元において操作していたそれらが互いに組み合わされ再構成されるとき、私たちは体系(システム)を支えていた規範を手放し、新たな意味の連鎖作用を触発する私/詩的な想像力の領域へと転位されてゆく。
おそらく肝心なのはバランス感覚なのだ。アブストラクトな思索にフィジカルなかたちを与えたこれらの作品は、何らかの科学的(サイエンティフィック)な照準を拠り所とする即物的な視覚言語で構成されている。不純物を取り除き精練を経たミニマルな要素で組み立てられる空間——しかしその空間を満たしているのは実のところ、まったく不確定で任意(アービトラリー)な法則、あるいは客観的な規定に収まりきらない思考の残余物だったりするのだ。そして、こうした2極間の均衡感覚、そこに生じる交感作用というものこそ、案外、私たちが〈世界〉を認識しそこに何らかの意味を与えようとする際に手掛かりとなってくるものなのではないだろうか。《タイム・マシーン》(1994)と題されたパタソンの作品を見ていると、そんな考えが頭に浮かんでくる。ここではひと組の航海用の計算尺がベース素材として用いられているが、3対のレールの各々には聖書、哲学、古生物学の進化の歴史にまつわる名前が書き連ねられている。例えばレールを自由にスライドさせて、「ソロモン王」「スピノザ」「アウストラロピテクス」といった名前を横一列に並べ合わせてみたりできるような装置になっているのだが、これを使って測量されるものとはいったい何なのだろう? ある特定の名前がある時間の流れの中から拾い上げられ、私の/われわれの/彼らの「歴史」として整理され受けとめられるようになる。どこまでが「科学的な記述」でどこまでが「神話」なのか、推し量ることができたら——? 種々のコンセプトが個々人の、あるいはある文化的な共同体のもつ記憶装置に堆積され、相互に浸透してゆき、やがてはあるひとつの物語へと織り上げられてゆく——。パタソンが私たちに測り直させようとしているのはそんな過程(プロセス)そのものなのかもしれない。
初出=『STUDIO VOICE』1997年5月号