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夢の今を信じる


——鈴木理策の《SAKURA     吉野桜》
 

桜を見つめていると、なぜこんなにも、

狂おしくなるのだろう——?

視線が、畏れと魅了の狭間で錯綜し、

桜、それ自体の中へと、溶け入っていく。

鮮烈な感覚と感情が、瞬間のイメージを通じて、飛び火する——。

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All Works © Risaku SUZUKI

凡てが動いてゐるのを感じる時にそこに現在があるといふのは前に書いたことであつても幾度も繰り返して構はない。(中略)夢心地といふのは普通は夢を見てゐる状態で嘘の世界に遊ぶこと、或はその状態で世界を嘘のものに仕立てることを指して用ゐられるが我々が実際に夢を見てゐる時に何かが固定してゐるといふ印象を受けないことも事実でその限りでは我々が正確に或る現在にゐることを認める時に我々は夢心地でゐる。 
                         吉田健一「時間」1976
                         (『吉田健一集成 三』、新潮社:東京、1993)


フレーム一杯に充満する桜の飛沫、豊かな濃淡に移ろうピンクの島々、画面を横断し線状に動く褐色の枝、空の鮮烈な青さ、ふいに白い領界をつくって漂う雲、揺らぐ大気、ぶれる輪郭、ぼやける視界——鈴木理策の新作《SAKURA 吉野桜》(2002)には、なにか差し迫った美しさが張っている。3万本もの桜で名高い聖地、吉野を訪れて撮影されたこの作品は、21枚の写真で構成されている。そこに現れるのは、ひたすら、桜、それ自体との遭遇の瞬間、眼を介して身体を襲う驚異の連続である。
 
 
「桜を見ているときの狂おしい気持ちを伝えたかった」と作者が語るとおり、ここに捕らえられているのは、見えるもの(桜)の内に投射されて顕れる見えないもの(狂おしさ)だ。フォーカスを浅くして、ピントの合う面とずれる面を混在させたイメージは、遠近感を錯綜させ、「見たいのに見えない」「見えているのに見えない」曖昧な場所を散在させて、視覚を惑わす。「物」としての桜は砕けて輝く粒の連なりとなり、液状の拡がりとして滲み、澱(おり)となって視野を封鎖する。
 
 
《SAKURA》の中では、見ることと感知すること、写すこととイメージをつくることを巡って、さまざまな関心事が連鎖して展開する。まず、そこでは、桜を求める視線は、自己と対象を阻む一線に踏み入って接近し、桜自体の中へ、身をもって入っていく(だとすれば、まさに生理的、多孔的ともいえるこの視線が、それが写し撮るイメージを見るひとの肉体を貫き、感覚的(センソリー)で官能的(センシュアル)な震えを同期させるのも、不思議ではない)。それは、身体を浸透させることによって、像の内に顕れる本質的なもの、桜という「物」に内在し見るひととの間で反響される純粋状態を感知するのだと、ただ信じることのうえに成立している。なぜなら、悟性や理知は、そんな可能性を保証してはくれないからだ。
 
 
けれども他方で、対象の内に入ってなお見つづけることは、危うい投企以外の何物でもない。見る行為に不可欠な隔たり、眼と対象が同一化しえない距離を、無限定な融合という夢への耽溺の中で放棄する誘惑に、途切れなく晒されるからだ。つまり、それは盲目と隣り合わせにある。見ることが、絶えざる持続と崩壊の際まで、追いやられていく——。
 

 
 

 
鈴木のこれまでの仕事を振り返ると、《SAKURA》は、前作《サント=ヴィクトワール山》(2002)で示されていた制作における焦点の転換を、より推し進めた作品と映る。セザンヌの絵画で知られるこの南仏の聖山を下りながら、石灰質の岩肌や風に揺れる乾いた草木を撮影し、最後に遠景から山を風景画として捕らえた本作では、それまでの鈴木の作品を特徴づけていた、複数の写真を再構成することで、日常から目的地へと至る空間の移動や、異なる時間軸と多層的な意識の交差、一種、映画的な物語性を喚起する叙述のスタイルが抑えられ、代わりに全体として、現地で経験された感覚の圧倒性がより強い印象を残す。制作について、鈴木はこう語っていた。
 
「セザンヌの絵の話をすると(中略)時間が描かれてるというと変だけど、絵を描くのにその都度やりとりがあったのが画面に現れていてとても惹かれます。(中略)描き終わっているにもかかわらず、描いてる、見てる、待っているという対象を受け容れようとした行為が現れ続けている。写真でも似たことを出来ないかと漠然と考えてました。写真はカメラが間にあるから、僕らがものを見るという行為とは圧倒的に異なる。ただシークエンスにすることで、そこで見るために生まれる時間、経験を意識させたいと思いました。それと写真と見るという行為との誤差をあえて表したい、写真にしか起こり得ないことを大事にしたいと考えてます。」 
                     
                     
鈴木理策『サイト——場所と光景』展カタログ                             
                         
(東京国立近代美術館:東京、2002)
ここには、鈴木の作品を理解する助けとなる幾つかの大切な鍵が列挙されている。ひとつは時間の問題。一枚のイメージの中に時間の流れを描くこと、そして、複数のイメージを並べてシークエンスを編むことによって、イメージの外で(回想の追体験ではなく新たに生まれる)見る時間を経験させること、内と外、ふたつの時間への意識だ。次に、見る/写す対象を受け容れる態度への接近。最後に、見ることと写すことの誤差の確認である。


もともと鈴木の作品には、少なくとも《KUMANO》(1996-98)以来一貫して、時間、その切断と持続、流れと速度への強い意識が存在している。聖地には日常と異なる時間のテンポがあると語り、そんな特別な時間を見せようと試みてきた。また、タブロー的な限定性から解放された、その大半が「決定的瞬間」ではない見過ごされた断片の編纂として、見る側から語られることも多かった。ロード・ムービーに比して、しかしそこに、瞬間を切断する写真の特性を認めつつ、省かれたシーンというエア・ポケットの挿入や断続の効果が、より自在な想像力を喚起するという語りもしばしば聞かれた。


《SAKURA》では、《サント=ヴィクトワール山》にも増して、この種の外的な時間と物語性は切り詰められているが、物語の展開は存在する。白い光線を浴びて清楚に輝く桜から始まって、濃く強い空の青を背景に、花々が密に重なって確かな量塊を成し、枝が房や蕾を点在させて線を伸ばす、見事な均衡のコンポジションが続く。中盤、一本の枝が画面の右上から落ちてきて、左側をうろこ雲のような斑点の拡がりとなった桜の残滓が旋回し、時間の展開を印象づけるショットや、樹々が画面をぐるりと取り囲むフォーメーションを描き、色めき立ちながら、中央に抜ける青空の通過口へ視線を誘い入れる一枚を契機に、桜を求める視線が加速的に切迫していく。手前に立ちはだかる枝は溶け、局所的に遮られた視界の奥に、かたちを留めた花々が垣間見える。枝葉や幹は縦横無尽に走ってダイナミックな運動を生み出し、不透明なピンクの渦がノイズを奏で、崩れ落ちる寸前で留まっている。綿雪のように宙に散って静止した花々が、甘く柔らかな多幸感で視界を満たす。そして、陶酔の熱が引き、紫とグレーの陰影を帯びて白っぽく褪せた像がとってかわり、かつてない高さで背後の桜が覆い隠され、再び視界は遮断され、厳かな隔たりをもって物語は終わる。


こうしてページを繰っていくと、ここでは、外的なシークエンスを追うことで経験される時間の流れやリズムが、一点一点のイメージの中に満ちた内的な時間、その現在性と運動に、より密に繋ぎとめられている感覚を覚える。それは、対象自体にいっそう隔たりなく対面しつづけよう、対象を持続し切断される時間の相の内に受け容れようという指向性を、強く意識させられるからだ。ここで想起されるのは、たとえば、中井正一の語る「みる/うつすひと」である。   

 
「見るということは、光の物理作用と、眼の知覚作用の総合作用だと誰でも考えているし、またそれにちがいはない。素朴的にいわば客観を主観にうつしとる作用だという考えかたである。しかし、(中略)「うつす」という言葉には大体、映す、移す、といったように、一つの場所にあるものをほかの場所に移動し、または射影して、しかも両者が等値的な関連をもっていることを指すのである。(中略))「みる」という言葉の意味の中には、さらにこの肉体的な射影行動の意味ばかりでなく、やってみるといったように、験すとか、何か不思議に面しているような、好奇的なこころもちも含まれている。 この気分の中には、移るもの自体は、すでに行為的な流動的な時間的な、未来にのしかかっていく移動もふくまれていて、うつすとかうつるとかに関連して、みるという気持が、行為的な速度を経験している。(中略)一瞬一瞬、自分がいつのまにかほかの自分になっている。この音もない移動を単なる運動とするのではなくして、「同一の自分」と「移る自分」とをつなぐ神秘な重々無尽の鏡の間として、見ることが意味をもってくるのである。

               
               中井正一「『見ること』の意味」1937                             
                        (大島洋選『再録写真論一九二—一九六五』
                        
                         東京都写真美術館叢書、淡交社:東京、1999)
「一瞬一瞬、自分がいつのまにかほかの自分になっている」——。つまり、時間の相において変容しつづけているのは、「みる/うつす」行為の対象だけでなく、その主体でもある。そんな移ろう主体の写し出すイメージにおいては、「描いてる、見てる、待っているという対象を受け容れようとした行為が現れ続けている」。そこではじめて、見ることとイメージをつくることの誤差が問題となる。 無数の「切断の連続」へと分散した錯綜する印象の状態を、いかにひとつのヴィジョンとしてイメージへと「うつす」か? その転移の過程には、受け容れることがより端的に「受難(パッション)」となるスイッチ・ポイントが存在する。
「自らを、感覚に対して全面的に開放された受信装置、純粋な感光板と化すことにもっぱら捧げられたセザンヌの探求は、セザンヌの語るところの「自然」がたえず生起せさずにはやまぬ無限の「小さな感覚」に対して、そのひとつとしてやりすごすことなく自らの感覚を押し開くという痛みに耐えつづけることでもあったはずだ。それゆえ、セザンヌは自らの生を支えるために、この感覚のパニック状態のさなかで、 感覚を組織化し、すなわち、とりあえず絵画によって、感覚を実現せねばならなかったのだ。」                                        

                     松浦寿夫「感覚のパニック状態」1999                        
                        
(『美術手帖』1999年10月号、美術出版社:東京)
身をもって感じる苦しみを受諾すること、その受動性は、「感覚を組織化する」、つまりイメージを成すという意志によって、能動的行為へと吸引されていく。しかし、そもそも写真においては、決定的な受動性が介入する。 絵画であれば(たとえ逡巡や遅延によって、画家自身の意図とは別の偶然のずれも起こりうるとしても)根元的には、画家の意識的選択のもとに、筆触を重ねて継続する時間の中で描かれていくことが、写真では、事実、一瞬の内に、否応なく像は写し取られてしまう。そのひと自身にすら制御不能な機械の眼は、写すひとと見るひととを自己の内において分離させる自明のガラスであり、写すひとと対象との中間に、 徹底したそっけなさで介在する第三者の眼(他者の眼、〈神〉の眼?)だ。求められているのは、カメラという眼を——その絶対的な冷淡さゆえに疑いながらも、あまりにも明白な物理性において——信じることなのだ。   






写すことは、ひとめぼれすることに似ている。どちらも瞬時に(半ば未知の内に、 主体自身の意志を超えて)決定される一種の「事故」であり、事後的にしか、それがなんであったのかを見る/語ることができない。    
(バルトを借りて言えば、ひとめぼれという「最初の『拉致』の場面」には「偶然の壮麗さがそなわっている」。そして、「再構成されたあの場面の全体が、ひとつの無知の壮大なモンタージュとして機能する」。

                      [ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』1976                      
                        三好郁朗訳、みすず書房、1980])

 
無数の知りえない部分、見えていない要素、零れ落ちていく微かなものが去来する、「そこに他者として在る」世界の総体に、まさに無知と不可視ゆえに魅了され、愕きつつ邂逅する行為は、正しく宗教的な契機となりうる質を有している。  


写すことの内に本来的に備わっている聖的な体験に連なる特性は、しかし、その効用が妥当性を保つ区切りを巡って、写すひとを困惑させ、疑わせる。信じるしかないが、けれど、すべてを信じることができるだろうか。見えていないのかもしれないが、それでも、見なければ写せない。聖的な体験を真に享受しきるならば、自己と他者を分かつ距離は消え、互いが互いの内に結合するかもしれない。だが、そこではもはや、ひとは、かつて他者だったものを他者としては写せないだろう。桜が桜としての美と厳かさをもって眺められるために、ヴューファインダーはひとつの安全弁として機能する。 


《SAKURA》が、吉野の、聖別された歴史を負った桜だという認識がなくとも、こうした魅了と畏怖の拮抗する差し迫った現存性を察知ことはできる。あるいは、これはやはり、吉野という聖地、超自然的な力への信仰で照射され、現世と来世が想像と象徴において交差してきた地でしか撮りえなかった桜の姿なのだろうか? そうかもしれない。だが、詰まるところ、因果の所在はどうでもよい。ここに顕れる桜は、ただ桜であって、それ以外ではない。  


考えてみれば、これはかえって恐ろしいことである。《KUMANO》以降の鈴木の作品一般にいえることだが、歴史的に記号化されることによって聖性を保証されてきた類の事物は、もともと退けられているか、あるいは一個の「物」として脱記号化されている。風に揺れて燃える炎自体に、水を汲む手が隆起させる川の淀みの内に、推し量りがたいなにかが晒け出されるのだ。いわゆる狭義の宗教的な表象を脱色するそっけない視線は、熊野を「KUMANO」に、恐山を「OSOREZAN」に書き換え、日本的な神性の物語を脱神話化する一方で、見尽くしえない無数の「物」を意識し、流動する世界のはかなさの只中に差し入っていくことで、 逆に、広義に「宗教的」と呼ぶべき感情を、強力に掬い上げて伝播するのである(あるいは、これこそ「日本的」な聖性の信仰なのだろうか?)。  


見えないものを見る眼差しが、イメージを通じて、感覚と感情の蓋を叩く——。 かつて目にした桜の残像以上に、その狂おしさの記憶を揺さぶりながら。私たちは現実の桜を、こんなふうに見ることはない。 現実以上に増幅された夢を、今、目の前に在るものとして、イメージの内にのみ、信じるのである。




                                                                         『SUZUKI RISAKU: hysteric Eight』
                                                                          本作《SAKURA 吉野桜》の初出写真集
                                                                          ヒステリックグラマー刊
                                                                           限定500部  



2003年初頭、冬執筆 

初出=『美術手帖/BT』2003年3月号、美術出版社:東京


 
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