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​はじめに

——「オルタナティヴな翻訳の試み」について
 

ここに掲載する3本のテキストは、ヨネダコウ氏によるマンガ作品『囀る鳥は羽ばたかない』とその前身となった2編の短編作品を読み、本作の熱狂的な愛読者のひとりとして、新たな私なりの解釈・分析を施し、現在、そして未来の読者たちに向けて伝え、記録に残すことを目的に執筆したものである。

 

CHAPTER 1(第1章)と CHAPTER 2(第2章)の作品論のエッセイは、日本語と英語、ふたつの言語でそれぞれ独立したエッセイを書いた。第1章は、『囀る』という作品全般を論じたテキストであると同時に、その魅力を分析する行為を通じて、「なぜ、人は、ある種のやおい・BLを熱狂的に愛読してきたのか?」という問いに対するひとつの答え、つまり、結果的に、筆者なりの「やおい・BL論」にもなっている。第2章は、本作に先立つ短編作品「漂えど沈まず、されど鳴きもせず」を分析・解釈し、また同時に、英語版テキストでは、「著者による日本語原文の美しさに、できうるかぎり忠実に精緻に英訳すること」を目指す、いわば「オルタナティヴな翻訳」のための、ひとつのケーススタディとして執筆した。

 

つまり、3つのいずれのテキストも、日英バイリンガルで、それぞれにふたつのバージョンを作成し、日本、そして世界各地に住まう日本語を解さない、大勢の本作の熱心な愛読者たちに向けて、書いている。いまや日本のマンガは、日本国内でも海外でも、驚くほどに浸透し愛されており、日本語でも英語でも等しく、真剣に語られるべき時代だと思うからだ。

 

第1章と第2章の日本語版のテキストと英語版のテキストは、ほぼ9割程度は、相互に忠実な「翻訳」であるが、残りの1割ほど、日本語で、あるいは英語で、私なりに、それぞれに最適な表現だと感じるやり方で言語化を試みるために、どうしても、おのおのの言語に固有の特性を重んじた、いわば「翻訳不能な」表現部分も存在している。つまり、日本語版と英語版は、意図的に、完全には合致させていない部分を残している。これは、おそらく、複数の言語で執筆する書き手には理解し共感してもらえることであると思うが、言語はただの伝達手段ではなく、表現の様式でもあるため、日本語テキストと英語テキスト、それぞれを、自分自身でももっとも満足のいくかたちで表現するには、ある意味、避けがたい選択であったことをご理解いただきたい。

 

そして、このイントロダクションにつづく2篇のエッセイには、冒頭でも触れたとおり、作品の分析・解釈という目的に加えて、もうひとつ、「翻訳」の可能性を問うという目的がある。それは、本作『囀る』を読む行為を通じて、そもそもの作品解釈の土台となる、日本のマンガ作品を英訳するための「オルタナティヴな(別の)方法」を提示し、「著者の個性的で美しい日本語原文の表現に、できる限り忠実で精緻な翻訳を作成しようと試みることが、果たしてどこまで可能かつ有益でありうるのか?」を、私なりに問うことである。それはまた、「日本のマンガ一般の英語訳のクォリティを高めるために、私なりに、ささやかながらも、なんらかの貢献を果たすことは可能か?」という問いでもある。

 

事実、残念なことに、マンガの英語訳の品質は、一般論としても、いまだ小説や詩などの文学作品の英語訳よりもはるかに低いと思われ、本作の公式英語版にも、誤訳や過度の雑訳が、端々に散見される。そして、おそらく、こうした問題は、大なり小なり、英語以外の多くの他言語への翻訳にも当てはまるのではないだろうかとも推測される。マンガの翻訳の質的向上は、世界中の出版社が即刻取り組むべき深刻な課題であるだろう。

 

そこで、このイントロダクションにつづく2篇のテキストにおいて、新しく筆者がつけた分の英語訳について、どのような視点を重要視し、どのような過程で作成したかを、ご説明しておきたい。

 

まず、ここでは、なによりも、『囀る』をめぐる作品世界の表現を、新しい英訳の試みを通じて、「できるだけ日本語原文に忠実に解釈し、表象=再現(リプレゼント)すること」を目指している。私個人は、「言語というものは、必要に迫られた場合、既存の限界を超え、拡張し『成長』していくことが可能だ」という信念、希望と期待(アスピレーション)を持っている。

 

私は、ライター兼エディターであるとともに、プロの英日・日英翻訳者でもある。とりわけ小説や詩やマンガのような創造性の高いテキストの場合には、理想的にも現実的にも、本来、私自身、「日本語から英語への翻訳は、まず、英語を母語とする優秀なプロフェッショナルな翻訳者が作成し、そのあとに、日本語を母語とし、日本語と英語での文章執筆・編集・翻訳に長けた人物が、誤読や誤訳、過度の雑訳による不適切な部分をチェックし校閲・修正し、最終的には、彼らふたりによる共同作業として行うこと」が最善だと考えている。

 

しかしながら、今回の場合、私自身が、その仕事ぶりに大きな信頼を寄せている、英語ネイティヴで優秀なプロの日英翻訳者を雇って、全面的に彼にまず翻訳を作成してもらうには、残念ながら、私の予算が許さなかった。結果、私の思う本来的な工程とは「逆の順番」で、まず、全面に、私が、『囀る』公式英語版既刊第1巻から第6巻を読み直し、翻訳が不適切だと判断した部分について、自分で英語訳を新しくつくり、それを、先述の私が信頼する英語ネイティヴで優秀なアメリカ人日英翻訳者、ブライアン・トーガソン氏に、ネイティヴ・チェックと校閲を依頼し、「英語ネイティヴの翻訳者として許容できる限りで、できるだけ日本語原文の表現をリスペクトし、ミニマムな校閲・修正を、私との共同作業として施す」という方針で行ってもらった。

 

このような過程と全体的な方向性のもとに、新たな英訳を作成したわけであるが、その最後の欠かせないステップとして、この3篇の英語部分のテキスト全体(公式英語版からの引用部分は除く)を、私の古くからの友人であり、プロフェッショナルな英国人エディターでもある、ジェイムズ・ロバーツ氏に、編集と校閲作業を依頼し、そうして、英語部分を完成させた。日本語部分の編集は、筆者自身が行った。

 

こうして、この3篇のテキストは、一連の制作作業を経て完成されたわけであるが、そのさいに一貫してこだわった私の強い希望、つまり、「著者の個性的で美しい表現に、できる限り忠実に、英語に翻訳したい」がゆえに行った、とりわけ以下のような、実験的な試みを多々含んでいることを、ご理解いただきたい。

 

第一に、声の翻訳の問題について。英語でこれらのテキストを読む読者には、「斬新で、耳慣れない」ように聞こえる箇所があるかもしれないことは十分承知しているが、本書では、「できるだけ日本語の原音、もとの音色・音感に忠実に」訳出している。事実、日本人は日本人らしい音で、現実世界においても、喘いだり叫んだりするからだ。

 

第二に、ここでは、日本のマンガ作品でよく使われる記号、「…」や「……」、「——」「‼」のような、英語の翻訳文では、いまだあまり一般的には普及し使われていないものも用いる。というのは、これらの記号の存在やその都度都度の数量は、しばしば、マンガや文学作品の創造においても、その精緻な読み解きにおいても、必要不可欠、かつ、多大な効果をもたらしているからである。つまり、これらの記号は、往々にして、日本のマンガにおいて、著者それぞれの嗜好の質を伝え、作品が持つ独特な雰囲気を醸し出す。それらを外国語に置き換えるさいも、そのマンガのセリフのニュアンスを十全に伝達するために、必要に応じて、とりわけ以下の3つについて、もとの記号の存在と数量を残すよう試みる。

 

ひとつは、「…」、つまり「3点リーダー」だ。似たような余韻や省略、ためらいなどの効果は、「——」、つまり「ダーシ」という記号でも生み出される。最後に、「‼」、つまり二重感嘆符(ダブル・エクスクラメーション・マーク)である。

 

これらの記号を、他の言語に正確に翻訳し置換することは、ときにきわめて困難だということは重々承知のうえで、だ。とりわけ、多くの言語が、横書きでしかテキストを記述できないことを考えれば、尚更だ。日本語は、縦書きと横書きの両方が可能な、珍しい言語である。オリジナルの日本語版のマンガ作品を見れば、縦書きをベースに、時に横書きも組み入れられ、この言語的メリットが、いかに、ページ内の空間を、ダイナミックかつ繊細に操り演出しているかが容易にわかるだろう。とりわけ手描きされる擬音や効果音などのオノマトペでは、単語(ワード)が、句や節(フレーズ)が、文(センテンス)が、自由自在に流暢に、どんな方向へも望むままに向かっていく。また、日本のマンガでは、しばしば、特定のテキストのサイズを拡大したり縮小したりすることで、似たようなダイナミックかつ柔軟な効果も生み出される。

 

そして最後に、もっとも深刻かつ重要なことであるが、映画やテレビドラマの翻訳と同じように、マンガの翻訳には、物理的な空間の容量とワード数の制約があることも、私自身、重々承知している。つまり、マンガにおいては、テキストを、それぞれ、しかるべき吹き出しや背景の中に、なんとか押し込んで収納させねばならない。原文にできるだけ忠実であることと、この空間的要件を満たすこと、これら双方を同時に達成することがひじょうに困難なケースが、事実、頻出するものだということも理解している。しかし、私自身も書き手の端くれとして思うのだが、それがもともと執筆した言語での原文であれ、別の言語に転換された翻訳文であれ、しばしば、多くの書き手がもっとも嫌うこととは、自分の書いたテキストが、誤読され、誤訳され、乱暴すぎるほどに大雑把に要約されてしまうこと、そして、原文本来の言葉や表現、意味やニュアンスが維持されずに過度に改変されて、読者に伝達されることだと感じる。英語圏のマンガ編集者は、必要ならば、フォントサイズをよりフレキシブルに拡大・縮小し、スペースを無駄に食いがちな、昔ながらの「全大文字(オール・キャピタル)」で綴られたテキストの頻用を見直すなど、もはや時代の要請についていけなくなった因習的な規範をまず改めるべきであり、あまりにも歪められた深刻な誤訳・雑訳を許容し世界中にディストリビュートするよりも、そのほうがはるかにマシだろう、と私個人は感じている。と同時に、事実、空間的に十分に余裕のある箇所でも、大幅にはしょったり誤読・改変したりしているケースも頻出している。つまり、翻訳の精度とクォリティ、質への意識の次元の問題でもあることは明らかなのである。

 

英語版は、実際、アメリカ国外でも多数の国々で読まれ、なかには日本語版原文ではなく、英語版から別の自国語版に訳出している国々も少なくないというマンガの世界的な翻訳事情も鑑みれば、英語版のクォリティの不味さは、もはや英語圏の国々の読者たちに限らず、全世界的に影響の及ぶ一大問題なのである。そして、おそらくこの「翻訳のクォリティ」をめぐる問題の裏側には、しばしば、世界の少なからぬ国々の少なからぬ業界で、翻訳者たちがいわば「知的な下層階級」と化し、あまりにも安すぎる対価と報酬の相場に長らく甘んじてきたという現実問題もあるのではないだろうか。つまり事の本質は、個々人の翻訳者の意識の改革だけですむほど単純ではないと、私自身、翻訳者・編集者のひとりとして感じている。より構造的なレベルの問題もあるはずだ。

 

話の大筋が若干逸れたが、ここでは、繰り返すが、「オリジナルの日本語にできる限り忠実な、オルタナティヴな翻訳の提案」を試みている。そもそも、この3つのエッセイでは、マンガのコマの絵は用いず、テキストのみを使用して翻訳しているので、容量制限の問題はここで直面し対処すべき課題ではない。したがって、ここでは、翻訳文の長さの問題は無視することとする。

 

なお、英語のテキストは、本作の英訳部分はアメリカ英語で、残りの部分は筆者に個人的に馴染みの深いイギリス英語で、作成した。

 

以上、前置きが長くなったが、はじめにご説明しておく。

 

それでは、ここから、これら3篇のテキストを通じて、『囀る』の比類なく美しくパワフルな作品世界の片鱗を、どうか、ひとりでも多くの読者に堪能していただきたい。本稿がその一助となれば、ひとりの書き手として、また、本作のファンとしての私にとっても、これ以上に幸せなことはない——。

​2022年春執筆

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