フェリックス・ゴンザレス=トレス
——終わりのないプロセス


All Visual Works © Felix Gonzalez-Torres Foundadtion
フェリックス・ゴンザレス=トレスが死んだ。
その訃報を聞いたとき、もちろん悲しかったのだが……
しかし、不思議と驚きはなく、代わりに奇妙な既視感に襲われた。
たえず彼の仕事を覆っていたあの予感、
ある「喪失というプロセス」の始まる予感を、
肌で感じ取っていたのだと思う。
ミシェル・フーコーが、以前、あるインタビューで、
「恋愛における同性愛者の最高のときは、恋人がタクシーで去るときだ」と、
語っていたことがある。
「微笑みを、身体の温もりを、声の音を思い出すのは、
性行為が終わって青年が去ってから」であり、
「同性愛関係において重要な役割を果たすのは、
行為の先取りよりもその追憶」なのだ、と。
わたしは、そんな甘くてつらい余韻のようなものを、
G=Tの作品に触れるたびに感じ、そして持て余していた。
たとえば、1992年、NY MOMAでの展覧会のさいに、
ニューヨーク市内の道端24か所に設置されたビルボードの作品。
そこに貼られた巨大なポスターが映し出していたのは、
主(あるじ)たちが去った後のダブルベッドだった。
乱れたシーツ、頭の形にへこみ、寄り添い合う一対の枕。
その真っ白い空っぽの空間が伝えていたのは、
出逢うことのかなわなかった見知らぬ誰かの生きた、歓びの一瞬であり、
まるで空気のように、宙に拡散し消えてしまった、
ある「親密な関係性」であったように思われる。
「空気のように、宙に拡散し……」と、言ったのは、比喩などではない。
ニューヨークのせわしない雑踏の中に設置されることで、
このきわめて私的な空間は、ひっそりと、
街角の喧噪の中へと浸透していった。
そして、交じり合っていったのは、
これらふたつの、本来互いに切り離されていた空間だけではなく、
それらの場所に滲み込んでいた
「関係性の記憶」でもあったのではないだろうか?
街角に掲げられたそのビルボードの風景には、
奇妙なほど、疎外感というものが感じられず、
何かがこちらのほうへと開かれていた。
まったくわたしとは無関係に生じたはずの「関係性」の中に、
いつの間にか、わたし自身も含まれてゆくかのように。
「個人と群集の関係性についてのメタファーを、作品に託しているのか?」と問われたとき、
G=Tは、こんなふうに答えていた。
「たぶん、パブリックとプライベートのあいだ、
個人的なものと社会的なものとのあいだ、
あるいは、失ってしまうことへの恐れと愛すること、
成長してゆくこと、変わり続けること、
いつも、より大きく拡がろうとすること、
ゆっくりと自分というものを手放して、
繰り返し何度も、
何も持っていない状態から満たされようとすること。
そういうことの合間に生まれる関係性」についてのメタファーだろう、と。
この言葉の意味は、彼の作品に触れてみれば、よく解るだろう。
何百枚もの紙を積み重ねてつくられたスカルプチャー(?)、
部屋の隅に積み上げられたキャンディーの山、
ビルボードに貼られたポスター、
壁に書き付けられたことば。
どれもいつか消えていってしまう予感を漂わせている。
ことばは新たなペンキで塗り消され、ポスターは剥がされてゆく。
ギャラリーの白い閉ざされた空間に置かれた、紙やキャンディーでさえもまた、
訪れる人々によって持ち去られてゆくことを、待ち望んでいるのだ。
けれども、「何かが失われてゆく」ということは、おそらく、
「すべてが枯れ果ててゆく」ことではない。
しょせん、キャンディーはキャンディーだし、 紙は紙でしかない。
もしもG=Tのそれが、わたしたちがふだん手にしているそれと違っているとしたら、
そのことは、彼のキャンディーや紙が、
芸術や美術館という「制度」のオーラに包まれているからではなく、
それらが、自らに触れるものとのあいだに、何か、
プラスアルファの「関係」をつくってしまうからだ。
たとえば、91年に制作された 《Untitled (Loverboys) 》と題された作品。
透明なセロファンに包まれて部屋の一角に積み上げられた、
白とブルーの渦巻き模様のキャンディーは、
ぱらぱらと床の上へと崩れ、
ひとつ、またひとつと、観衆によって持ち去られてゆき、
その一方で、ギャラリー職員によって、
展示期間中、際限なく補給されていた。
肝心なのは、その際、理想として設定されたキャンディーの総重量が、
アーティスト自身と彼の伴侶であった男性の体重を足した重さだったということ。
つまり、この作品は、彼らふたり、ある恋人たちのからだそのものだったのだが、
彼らのからだのかけらに手を伸ばし、
口に含み、舌にのせ、味わい、自らの体内に吸収してしまう可能性が、
作品の前に佇む人々のほうへと差し出されていたということなのだ。
儚くて、一瞬後には溶け消えていってしまうものなのに、
からだの芯にポッと火が灯りそうなくらい、アツイ。
恋愛の衝動みたいに。
しかも、ヴィールスのように感染性の代物だ。
ヴィールス?
たちの悪い最低の冗談みたいだ。
G=Tの伴侶も、彼自身も、HIVに感染して、命を落としたというのに。
体内を駆け巡ってゆくのは、媚薬なのか、毒薬なのか、
それとも何かまったく別の、計り知れないものなのだろうか?
もしもG=Tのつくった赤白一対のビーズのカーテン、
《Untiteled (Blood) 》、 《Untitled (Chemo) 》(HIV感染がもとで起こる癌の治療法の一種)をくぐり抜けてゆけるとしたら、
いったい、わたしたちのからだは、何に感染するのだろう?
ところで、先に挙げたフーコーの発言には、じつは、但し書きがついている。
同性愛関係における追憶の重要性は、具体的で実践的な考察の事実でしかなく、
同性愛の内的性質について何かを語るものではまったくないのだ、と。
では、何をもって、本質とするのか?
それは、再びフーコー自身の言葉を借りるならば、
「新たな関係を発見し、発明するために
おのれの性(セクシュアリテ)を用いること」であり、
また、問題は、「ゲイであること、それは生成過程にあるということであり[…]
同性愛者になるべきなのではなく、しかし懸命にゲイになるべきなのだ」ということだ。
思えば、G=Tの仕事とは、
そうした「生成過程」そのものではなかっただろうか?
何かが失われ、何かが満たされる。
そんなプロセスの中に「関係性」が生まれる。
そして、もしもそのプロセスが、
〈ここ〉と〈ここではない何処か〉をつなぐパッセージのようなものだとすれば、
カーテンに隔たれてわたしたちが垣間見ているのは、おそらく、
予感をとおしてただ望むことしかできない〈すべて〉、
それでも請いつづけるしかない〈すべて〉なのではないだろうか?
喪失への惧れと欲求が背中合わせである以上、
満たされようとする衝動は、
ついに満たされ尽くすことはない。
たとえ終着点のない道程で、足元を照らし導いてくれるのは、
なんの変哲もない、白熱ランプの光線だけだとしても。
Felix Gonzalez-Torres (1957-1996)
革命前のキューバで幼年期を過ごし、その後9つの時に親元を離れスペインに。
プエルトリコでの10代を経て、1979年よりニューヨークに移り、
87年以降、「グループ・マテリアル」に参画、
ソロでの制作と並行し活動。
96年初頭にAIDSのため逝去。
1996年春執筆
初出=『STUDIO VOICE』1996年11月号、インファス:東京