音楽シェア・プラットフォームを試しに使ってみて気づいた事柄:SoundCloud, Mixcloudにインターネット・ラジオからYouTubeまで、音楽作品のデリケートな価値のありよう、海賊版タダ聴き助長行為とプロモーション活動の境界線、音楽家の権益の侵害と世界的・長期的スケールでの評価向上・浸透の問題について、考えてみました。
- LEMONADE 888
- 2024年10月26日
- 読了時間: 6分
更新日:2024年10月28日

2024/10/26
以下、さきほどXで呟いた一連のツイートをもとに、表題の件について再度考えた事柄をまとめ直した覚書を、ここに記録・公開しておきます。
「YouTubeはしょせんYouTubeでしかなく、音質は粗悪で当たり前な世界でしかない」と思ってきたので、これまでさほど気にしてこなかったけれども、
今週、SoundCloudとMixcloud を初めて使ってみて、いろいろ気づいたことがありました。
これらは、音楽に特化したプラットフォームだけあって、下手をすると、ただの海賊版助長になりかねない脅威を秘めたツールだと、強く感じました。
あくまでも、オーディエンスの持つ、音楽家のCDや楽曲を購入する意欲を削らせないレベルで、チラ見せ程度、宣伝の節度を超えない程度に留めないと、たいへん問題のある行動につながりかねない。
この種のネット上の音楽シェア・プラットフォーム・ビジネスは、個人的には、YouTube以上に怖いと映るとも感じました。
たしかに、私の場合、無料会員なので、
とくにSoundCloudのほうは、
CDで聴くよりもだいぶ音質が劣化している印象を受けました。
けれども、そんなことは気にしないで、お金を払わずにタダ聴きで済ませたいというひとたちも、確実に、この広い地球上には存在しますよね。
そこが非常にリスキーな問題です。
インターネット・ラジオの場合も、
いまやいくらでも、それなりの音質で録音できるわけで、かつてのような一種の言い訳が、通用しなくなっている。
「記録に残らず、一過性の放送にすぎないし、宣伝効果が見込めるのだから」という言い分ですね。
日本のマンガ出版業界と作品が、世界中で被ってきた海賊版問題の深刻さ、そこで発生してきた途方もない経済損失推定額の規模などに、長年、それなりに危機感をもって身近に接してきた経験があるだけに、考えさせられてしまいます。
音楽作品と音楽産業の抱える、海賊版に対する脆弱性の問題は、マンガ作品にもまして非常に問題があるとさえ感じました。
そう思って自分の活動について、もう一度考えてみると、YouTube上でも、あまり大量に、溢れるほどの曲目をふんだんに公開し紹介すべきではないだろう、という考えに至りました。
私自身、以前から、「YouTube上で、音楽家のフルアルバムを載せるのも聴くのも、絶対に反対だ。なぜなら、海賊版被害を助長することになるから。」という考えを持ってきましたが、それだけでは不十分だったと、今更ながら気づき、いささか反省しています。
私自身のYouTube上での活動は、当初は、「ショート60秒の抜粋紹介ならば、ただの作品部分にすぎないのだから、音楽家とその作品を宣伝する効果のほうが圧倒的に上回るだろう。よって、許容される性質の活動ではないだろうか?」というような考え方から、展開していたのですが、
世の中には、「一曲単位で幾つか聴ければ、アルバム丸ごと、音源すべてを買わなくてもいい。なんならば、その一曲の中のさらに抜粋された一部分でもかまわない。ひたすら『無料万歳』である。」という価値観を持つ、ないし、非常に困窮した経済状況にある人びともいるのだろうと、考えを改めました。
(以前、あるマンガ作品の公式英語版の誤訳を指摘し、自分でつくった新訳を伝える活動をとおして、それこそ、アフリカ大陸以外の、ありとあらゆる世界の諸地域に住まう、さまざまな背景を持つ同作品の愛読者たち千数百人と、日々、InstagramとTumblr上で、活発に交流していたことがありました。そのときに、とくに中南米諸国の一部の読者たちから、いかに、彼女たちの住まうグローバル・サウスが、相対的な通貨安と貧困に長年苦しめられてきて、よって、海賊版を読まざるをえないか、ないし、一家の数日分の衣食住のための費用に当たるような、高価な対価を払って、正規版を購入する苦難を乗り越えなければならないか、「海賊版とは、ある種の条件下では、正当に容認されるべきものである」という考え方を、実に大勢の方々から強く主張されて、なかなかに難しい経験になりました。)
それはさておき。
まとめますと、こうしたさまざまなデリケートな問題を孕んだトピックをめぐる活動を行うのであれば、やはり、これ以上は無理と言えるほどに慎重に活動していかなければならないだろう、と気を引き締めています。
「西城秀樹の素晴らしさを、それについていまだ知らない、主に海外の若手世代という未開拓のオーディエンスに対して紹介し、好きになってもらう」、ひいては「彼らに、西城秀樹の音楽作品を買ってもらう」、そのためにこそ、アクションを起こしているのだという目的を、そこに伴うリスクや潜在的なデメリットや課題について俯瞰的に捉えつつ進めていかなければ、ただの社会的迷惑行為ないし無責任で危険な行為となって終わってしまうだけだろうとも感じます。
と同時に、そもそも、私の活動の動機は、
「西城秀樹の作品を、たとえばストーンズやプリンス、クイーンやテイラー・スイフトの作品紹介において、公式に、著作権者やその代理人たち自身が行ってきたようなやり方で、世界的かつ長期的展望をもって広く紹介し、西城秀樹がすでに得ていて当然であろ、妥当なレベルでの国際的な認知と評価を、一刻も早く獲得してほしい」
「西城秀樹を、世界の第一級のミュージシャンたち並みに、その実力に見合うかたちで、正当に評価してほしい」
「と言うか、すでにとうの昔に、そうした状況が現実化されていて当然であったろうに、なぜゆえ、当初の活動から半世紀も経った現在でも、グローバルなレベルでは、未だにあまりにも無名なのか?」
というものです。
こうした願望や現状への不満から、勝手に、私的なレベルで、紹介活動を行っているだけであり、そもそも、西城秀樹の認知と評価向上以外、ほかの音楽家のケースに、関心や熱意を持っているわけではなく、音楽産業を背負えるプロでもなんでもありません。
ですから、あくまでも、一介のファンの私的でささやかな行動の範疇を遵守しないといけないだろう、という思いを強めました。
西城秀樹ご本人が存命であれば、また別のアプローチやスタンスもありえたかもしれませんが。
しかしながら、これら一連の思考すべてをあらためて踏まえて、それでもなお、現在、おそらくは著作権者のご意向を受け、とくに欧米先進国圏において、西城秀樹の1970年代の主要なシングル曲が、YouTube上ではほとんどすべて全滅状態で、まるで聴くことが不可能な国やエリアが多数存在しているという大問題については、早々に変えていって頂かねば、未来に向かう希望さえ見出せずに終わってしまう、とも感じます。
「ポピュラーミュージック界の北朝鮮状態あるいは鎖国江戸時代状態」とでも言いましょうか。
それは決して音楽家本人のためにはならない、ただの足枷だろうと、私は思うのです。




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