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友人関係というもの

  • 執筆者の写真: EK
    EK
  • 2022年12月30日
  • 読了時間: 5分

更新日:2023年1月3日





2022/12/30〜2023/01/02







友人関係も恋愛関係と同じで、「自分にとってどれだけ役に立つか」という利己的なセコイ功利主義から価値判断をくだすひとは、けっきょく、真の意味では、友人も恋人も持ちえないのである。

いずれの場合も、その基盤に、そもそも自分は「相手をどれだけ尊敬し愛したいのか? 与え合いたいのか?」という無償の「利他的」な価値基準も、持続的に存在しつづけていなければ、成立しえない。


私自身、これがなっていなくて、自分の高慢さと怠惰から、唯一の幼なじみを、30代前半に失った。その後、彼女の夫君を通じて赦しを請うたが、返事はもらえなかった。今でもとても悔やんでいる。それくらい大切な存在だったのだ。


他方で、ある日突然、それまで親しい友人だと信じていたひとたちから、まったく全存在を無視され始めて、半年なり幾数年なり、ひとことのレスポンスももらえず、結果、私のほうから、上に書いたような基準で判断し、自分の人生から切り捨てて、消えてもらったひとたちもいる。


友人関係というものは、本来、相互的なリスペクトや親愛の感情を分かち持つことでなりたつと思う。

それが機能しなくなる理由はいろいろあるだろうし、私自身がその相手の迷惑や不快となるようなことをやらかしていたのだろうと反省すべき点もあるとは思う。

だが、同時に、究極的に言うと、相手の側にも、冒頭で述べたような「利己的功利主義」、つまり、自分と自分の仕事のことばかりに、一種異様に、過剰なほど取り憑かれて、損得勘定をするようになった部分が、たしかにあっただろうとも思う。

そうして、けっきょくは、それまで友人関係にあった相手に対しても、配慮なく、暴力的に、相手を無言で切り捨てる行為に帰結した場合が多いのではないかと感じる。

じっさい、幾度か、唐突かつ一方的に「無用で邪魔」の烙印を押され、長らく苦しむ目に遭ったことがある。

(あくまで経験上の推察だが、この「無言の暴力」は、一部の日本人のひとに特有な、どこか陰湿なものに感じる。ヨーロッパ人の友人たちから、この手の暴力を受けたことは一度もない。)


いちばん自分が弱って、助けを必要としていたときに、親友と思っていた人物にさっぱり見放されたこともある。

(そのときは、ある別の親友が、私の心を支えてくれた。一生忘れられない。感謝しかない。)

誰しもそのひとの人生と事情があるのだから、見放されたこと自体はべつにしょうがないだろうとも思った。ので、その見放して去っていった相手とも、一度は、友人関係を復縁させた。だが、さすがに二度目を繰り返されて、8か月程度もいっさいレスポンスなく無視されつづけたら、単純に、もはや相手を信頼することはできなくなった。

(その間、一度は気を取り直して、私自身が彼女を好きな事実は変わらないのだしと思い、謝罪と感謝の念もあって、彼女の好物を送ってみたこともあったが、半月以上経っても、ひとことのリアクションもなかったし、かといって受け取り拒否で返送されてもこなかった。他のひとたちからはすぐに受領とお礼の一報を受けた。)

そういう相手に傷つけられるのも、私自身の時間と心的エネルギーの無駄なので、もういいや、完全に私の人生から消えてもらおう、と、決めた。


職業柄であろうか。

これまでも、相当数、「過剰に仕事と自分自身に取り憑かれ、他人の扱いを変える女性たち」という人種に出くわしてきた。


私は、そういうタイプのひとが、とても嫌いだ。


まあ、彼女たちには彼女たちなりの物事の捉え方、見え方があるだろうし、別の問題点なり、私の欠点への憎悪や嫌悪があったのだろうが、他方で、私の目から見えた現実とその過程はこういうものとして存在していたのも事実であるから、少なくとも半分は、私の見解も正当性を主張して問題はないであろう。


端的に言って、仮にもその前日まで長年親友であった過去を鑑みれば、ひとこと、人間らしく、「あなたとのおつきあいをやめたい。もう連絡しないでほしい。今までありがとう。さようなら」云々の言葉がけがあってしかるべきだったろうに、と、私は思う。それは、ひととしての最低限の良識と礼節の問題でもある、と、私自身は感じる。


まあ、私も、器が小さすぎるのかもしれない。


「利他的な気持ちの必要性」を唱えるのであれば、そもそも、私自身、「なんの見返りも求めずに、相手のために、誠心誠意を全力で尽くすこと」ができなければならない、それがまだたんに今の自分にはできていない、というだけの話なのかもしれない。

けれども、究極的には——またいつもの私の敬愛する晩年のフーコーの思想を引き合いに出すけれども——「他者との友愛の関係性を築きつづける」ためには、他者への心遣いとともに、自己への配慮も必要だろう、とも思う。でなければ、今の未熟な私では、まだ、壊れてしまいかねない。いずれは、「より高い利他の精神を実践することができるようになりたい」という憧れはあるにせよ。

そう思うと、相手の側も、そういうプロセスの途中に今現在は留まっているだけであり、そもそも、私がどうこうと、偉そうに、批判や非難すべき問題ではない話なのかもしれない。


ともあれ、今、言えることは、現在の関係性がどうであれ、過去に自分が相手から多くをもらったことも圧倒的な事実なので、そのことへの感謝の気持ちはずっと忘れずにいようと思うということだ。

それに、自分の悪い点もたしかにあったのだろうから、気づかせてくれたことに感謝しつつ、そこは改善して成長していかなければならないとも思う。


やはり、もういい歳であるし、残りの半生は、お互い、リスペクトし合えて、私自身が愛したい、相互的な信頼関係を築くのに値する、と思えるひとびとと、おつきあいしていきたいのである。


とはいえ、別れは、やはり、つらくて哀しい。

これまで長年、自分のもっとも親しい大切な友人のひとりだった人間が、金輪際、私の人生から消えるのだ。

生きていても、もう、死に別れたのに等しい。

生きることは、こんなふうに途方もなく、ハードなこともあるものだな、としみじみ思う。










 
 
 

1 Comment


Tampopo Rin
Tampopo Rin
Dec 31, 2022

船長🐤ありがとうございます🐤

そうですね。。。🐤私もちょっと器が小さすぎるのかもと思ったりします🐤

現在どうなったのであれ過去に多くをもらったことも事実なので、そのことへの感謝は忘れないようにしようと思います🐤✨🌊

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