ハイレッド・センターと大学院の想い出
- EK

- 2022年11月30日
- 読了時間: 3分
更新日:2023年1月1日

2022/11/30
20数年ぶりに、今回、ハイレッド・センターのイベント型アートワークだった《シェルター・プラン》(1964)について書いた日本語のテキストに大幅な加筆と手直しを施して、このウェブサイトの批評コーナーで公開した。
1995年の春からリサーチをはじめ、6月に一度、当時住んでいたロンドンから逗子の実家に帰国して、東京で、アーティストご本人たちや、彼らの周辺で活動していた方々にインタビューさせて頂き、図書館で大量の資料をコピーした。
ロンドンに戻って、7月に、狂ったような速度で追いつめられて、英語で長い論文「The Politics of Ambiguity: The Art and Theory of Hi-Red Center, 1963-1964」を書き上げ、8月初旬に通っていた大学院に修士論文として提出した。
そもそも、2年間にわたる、ロンドン大学のコートールド美術研究所という学校の大学院でのポストグラデュエイト・ディプロマ課程と修士課程で、1848年から1970年頃までの近現代美術史を(とくに専門にしたのはフランスだったが、イギリスとアメリカについても)ずいぶんと勉強させられ、日々、朝から晩まで、とにかく文献を読んで作品を見て、毎週、なにかしら提出せねばならなかった論文やら口頭発表の草稿やらを書くのに必死な日々を送っていたため、95年の春先に、修士課程の地獄の最終筆記試験3時間を乗り越えたあと、残りのわずか3か月半で、修士の本論文を、一からリサーチを始めて、テーマを決めて、書き終えねばならないという異常なスケジュールだったが、それまで2年弱、欧米人に囲まれ彼らのアート・ヒストリーに毎日浸りきる生活だったのに、日本人として、ある面ではいささかうんざりしていたので、「修士の本論文では、これまで学んだ方法論や知識を援用して、日本のアートについて書きたい」という気持ちが、強くあったのだ(ちなみに、修士の副論文2本は、それぞれ、デュシャンやピカビアの1910〜20年代のパリ・ダダ、19世紀、西部開拓期のアメリカの理想化された崇高なランドスケープについて書いて、すでに提出していた)。
ハイレッド・センターについての本論文は、脚注を含めて、英文で約20000ワードくらいかけ、彼らの2年足らずの活動と作品の全容について執筆した。
その後、95年の秋から翌96年の晩夏にかけ、《シェルター・プラン》という一作品だけにフォーカスし、一部抜粋・改訂し、日本語版を執筆した。
今回の増補改訂版テキストのリリースに併せて、当時の想い出を、記事の最後に以下のように書いたので、このブログ記事にも載せておきたい。
「1995年の初夏に、東京で、赤瀬川原平さんと中西夏之さんには、お電話と対面とでお話を伺い、取材させて頂いた。すでに高松次郎さんはご病気でお話しすることがかなわなかった。後日、元の長い英語論文と、雑誌に掲載されたこの一部抜粋日本語版初版の写しを、お送りしたところ、おふたりそれぞれから、ご丁寧に、あたたかなねぎらいと謝意のお言葉を、お手紙で頂戴した。「ドキュメンタリー映画を観ているような気持ちになりました」というお言葉を赤瀬川さんから頂いたのが嬉しく、よく覚えている。直接お目にかかって長時間お話しさせて頂く機会に恵まれ、当時、おふたりとも、ずばぬけて研ぎ澄まされた知性と感性、発想力を兼ね備えた方々だという印象を強く受けた。中西さんが策士でいわばボス格、発想と行動を率先する先鋒が赤瀬川さんだったのかな、と感じた。その数年後、刀根康尚さんに仕事で長時間の対面インタビューをさせて頂き、その後、この日本語版をお読み頂いた。アーティストであるとともに、1960年代から70年代にかけて重要な同時代アートの批評と編集の仕事も多数手がけていらした刀根さんに、「なにかとんでもないものを読んだ感覚に襲われている。言葉にできない衝撃を受けた」と仰って頂けたことも、嬉しい想い出である。そう言えば、オノ・ヨーコさんとも、幾度か大きなお仕事をご一緒させて頂いたのに、この《シェルター・プラン》を当時体験なさった想い出をお聞きし忘れていた。少し心残りである。」



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