「書きたい」気持ち
- EK
- 2022年12月25日
- 読了時間: 3分
2022/12/25

はっきりなにかのきっかけがあったわけではないが、ここ数か月、「さっさと自分がいちばんやりたい仕事をしておかなければ。いつ死ぬかもわからないし。なんの活動もできない健康状態になるかもしれないし。ここからは、寿命から逆算して、巻きを入れていかないと。あと何年、何日、自分の自由になる日が残っているかわからないからな。」という焦燥感が日に日に大きくなってきていて、それで、ちょうどひと月くらい前に、このウェブサイトをつくりはじめた。
とりあえず、最初は、これまで書いてきたものに手直しを加えたり、デジタル化してアップロードする作業から始めて、自分が残す価値があると思うテキストで、そんなに大幅に手直ししなくてもすぐに公開できるものについては、ほぼほぼリリースし終えた。
手直ししていずれ加えたい批評テキストは、まだ、けっこうな数あるのだが、それはおいおい進めればいいや、と思っている。
それよりも、この「書きたい」という気持ちがもっとも強く向かっているのは、本来、そもそも、「自分と家族の人生の経験について書きたい」という欲求なのだ。
とはいえ、自分のことを書くのは、正直、後回しでいいし、父のことを書くのは、まだ、今の私には、つらすぎる。
なので、とりあえず、父方の祖父について書きはじめてみたい、と思っている。
そんなわけで、さきほど、ちょっとだけ、リビングにある父の遺した写真や書類の類をひっくり返してみた。
しかし、私が幼い頃に見た、祖父の大判のポートレイト写真が、長年探しているけれども、どうしても見つからない。おそらく、逗子の生家を処分したときに、なにかに紛れて、捨てられてしまったのだと思う。その写真の祖父は、まだ20代か30代初頭の頃だったろうと思うが、自分の祖父に対して言うのもなんだが、10代の私の目に映った記憶では、おそろしく濃厚でちょっと背筋が震えるような、なんだか危険な感じのする色気がほとばしる、波打つ天然パーマと彫りの深い顔立ちの美男子だったのだ
(ちなみに、父も、客観的に見てもかなりのハンサムだったと思うが、父はもっと理知的で清潔感のあるタイプで、ぜんぜん違う種類の美男子だった)。
あの写真が失われてしまったのは、ほんとうに残念でならない。
当時の祖父は、名古屋新聞、つまり今で言う中日新聞の記者で、名古屋・岐阜界隈の短歌や歌の同人文壇サークルにすでに長く出入りしていた頃であり、ちょうど、年代的にも、1920年代の後半から30年代の前半のどこかで撮られた写真だったはずで、いわゆる祖父らしい歌のスタイル、新感覚派に近しいスタイルができあがっていた頃の写真だったのではないかと思う。
その忘れがたい一枚の写真が喪われてしまったので、代わりにいくつかの古い写真と、祖父が遺した2冊の歌集の本を、自分のベッドルームに持ってきた。とりあえず、歌集を読み終えてから、なにか書き始めようと思っている。
ひとつだけ、岐阜だか名古屋だか、どこかに今も残っていると思うが、歌碑になった祖父の短歌を、以下に紹介しておく。


Yorumlar